文学

November 07, 2007

それから   夏目漱石

何気なく手に取った「夢十夜」から始まった夏目漱石my boomで「草枕」、「抗夫」、と読んできて4冊目です。

過去3冊に充満していた、あふれ出るような呪術性と幻惑的な幻想はなく、読み出せば散文的で人物描写、ストーリーの進行も一般の小説風です。
最初は少しガッカリもし、むしろ戸惑いましたが、読み進めるうちにやっぱり漱石は怪物の名にふさわしい大作家です。

話は、「高等遊民@漱石の造語。高等教育を受けながら恵まれた経済環境下で、働かずに読書などで時間をつぶす階級」の主人公、代助が、上京してきた友人の妻への恋情をしだいに募らせ破滅へと至る話ですが、要所に出てくる明治時代の東京の夜の描写や、降りつのる雨の情景など私がすっかり魅せられている漱石ならではの幻想風景も垣間見えます。

文学的な評価とは別になりますが、毎日、毎日忙しくて、休日も仕事だったりする私だと、
「僕の知っている者に三軒も四軒も仕事を掛け持ちし、ただ働くより暇がなく、何処に音楽会があろうと行く暇がない。パンを離れ水を離れた贅沢をしなければ人間の甲斐はない。」←大いに略した一文です
なんて言葉には少し寂しくなります。
また
大金持ちの父親から
「実業が厭なら厭でよい。何も金を儲けるだけが日本の為になるともかぎらん。生計くらいどうにでもしてやるから、奮発して何かするが好い」
なんて言われている代助はちょっと、というかかなり羨ましいです(笑
俺ならこれだけで喜ぶんだけどな。
結婚だってあの見合い相手なら充分だよ、なんて思います(笑

なんてことはさておき、恋愛物、恋愛小説には極めて点が辛いというか、そもそも読まない私が珍しくこの主人公代助の気持ちが分ります。
慕情を告白するのは小説でも終盤なのですが、地を這うような現実から遊離して暮らし続け、終生利害を離れてきた代助の告白は、目も眩むほど純粋で胸に迫ったな。

「その生命の裏にも表にも、欲得はなかった。利害はなかった。自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡てが幸であった。だから凡てが美しかった。」
恋愛小説で、こんな一文が腑に落ちたは初めてでした。
洋の東西を問わず、純化された恋愛は、やっぱり貴族階級の特権かもしれない。

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October 13, 2007

抗夫 夏目漱石

恵まれたぼんぼんが色恋沙汰から死を覚悟して出奔。
濃密な悪夢の中を彷徨います。

延々と続く松の木の林を抜け、どてらを着たポン引きに山、また山の中を引き回され、抗夫となるべく鉱山の長屋に連れ込まれ、脆弱な心は震え、虚弱な身体は萎え、半獣半人のような抗夫に嘲笑われ、やっと床につくとそこは南京虫の巣窟で、出される食べ物は南京米。

後半は明治時代の鉱山の中でまさに地獄巡りの様相です。
背を丸めてもぐりむ程度ならまだしも、身体ギリギリの坑道を抜け、底も知れぬ穴をはしごで降り、果てるとも知れぬ地底を水につかりながら彷徨います。
持っているのはカンテラ一つ。
それが雫に消されそうになれば闇に怯え、付いていれば酸欠を意識します。

268pの中篇ですが、漱石の凄みが横溢しています。
それは一貫して分厚く、得たいの知れぬ感触を読者へと尽きることなく提供します。
現実を乗り越えるほどの悪夢のりアリティ。
この矛盾を軽々と実現する漱石の力は、まさに「大自在の妙境」としかいいようのない絶後の表現力でしょう。


唐突ですが、みっしりと詰まった文章を読んでいるうちに、私は京極堂を思い起こしました。
このブログで京極夏彦を引いていただければ分ると思いますが、京極堂は現役作家では最もお気に入りの作家です。
彼の本を読むことは何よりの楽しみです。
でもこの286pは京極道の1000pに匹敵する、あるいは凌駕すると言い切ります。
それくらい凄い作家です。
もしこの記事を京極夏彦ファンの方が読んでいて漱石が未読ならぜひオススメ。
古くても良いもの。
それも絶品といってイイものがあることをの幸福を体験できると思います。

ps
個人的に夏目漱石を、日本文学史上最高の作家と認定します。
世界レベルでも充分戦えるでしょう。
格闘技じゃありませんが、漱石なら誰の挑戦でも受けられる。
真剣にそう思います。

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August 20, 2007

伝奇集        ホルヘ・ルイス・ボルヘス

現代文学の最高峰とも目される作品ですが、幻想譚を語る短編集なので少しは気軽に読めそうです。
不気味な話が多いのも、最近人気の「ホントウにあった怖い話」シリーズなどで馴染みやすそう(笑
少なくてもT・ピンチョンやS・エリクソンよりはなんとかなるだろう、と思って読み始めたのですが、さすがにそこはアルゼンチンの碩学、泰斗です。
物語の中に入るハードルは高く、集中力が要求されました。

結局、どんな小説かといえば、有名な序文を引用すれば

「数分で語り尽くせる着想を五百ページに渡って展開するのは労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすことだ@八岐の園」

とういう辺りに本質が垣間見えます。
この序文を逆から読めば、俺の小説は一言半句が、凡庸な小説の何十ページ分もイメージを広げるのだから、おろそかに読むな、ということですよね。
確かにそう豪語するだけの作品ではありました。

唐突ですが、「虚構を楽しむ」ということを、精神の旅に例えれば、
巨額の予算が投じられたハリウッド映画は、いたれりつくせりのファーストクラスと5つ星ホテルの旅です。
快適極まりなく、安全で、安楽で、危険はなく、供される楽しみも極上のプロが厳選したものばかり。
これはこれで悪くないです。

対して、ボルヘスの紡ぐ虚構は、見知らぬ外国を一人バイクで走り切るようなものです。
疲れるし、面倒だし、退屈な場面もありますが、深夜、無人の砂漠でみる星空や、猥雑な下町にじかに触れる刺激はありません。
またハリウッド映画(=ファーストクラスの旅)は、お金さえあれば誰でも楽しめますが、ボルヘスの旅(=バイク単独行)は、体力と語学力と、危機やチャンスを逃さない精神と肉体を要求されます。

ボルヘス流の旅ばかりでも疲れますが、ハリウッドの旅の合間になら良いでしょう。
何よりそれは特権的です。

以下、印象に残った分の感想です。

「バベルの図書館」
宇宙に等しい図書館。この魅惑的な幻想はボルヘスの筆によりリアルに姿を現します。
無限の回廊をさまよう殉教者と、底なしの中心部に広がる闇の深さに魅惑されます。
この1編は、20世紀の生んだ最も美しく堅牢な幻想でしょう。

「円環の廃墟」
視覚的なイメージが鮮やかで、この短編の中では最も分かりやすい1編だと思います。
円環は無限の象徴であり、廃墟も時間の永劫へのオマージュだと思います。

「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」
偽書から広がる幻想とその幻想の現実への侵食は、クトゥール神話を始め、多くの幻想譚で扱われるテーマですが、28pという掌編に最も重厚な1品があります。

集中して読める環境で読んでみてください。
一度物語の中に入りこめば、後は短くも充実した旅がまっています。

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July 17, 2007

シッダールタ    ヘッセ

題名からして釈尊の幼名ですし、設定も現世に疑問を感じ修行をする少年で、舞台は古のインド。
こうなれば当然仏教の開祖の話ですね、と思うと驚くなかれ違うのです。

この本のシッダールタは、仏教の開祖にはなりません。
ただ驚くのは、その仏教の教えの根本理念を極めて明確にかつ詩情豊かに描くことです。

円熟期の文豪ヘッセの描写は、「すべては美しく謎に満ち、魔術的で」楽園に流れる蜜のような名文は、限りなく豊かで濃厚なイメージの放流を喚起し、真昼の灼熱のインドが生む幻影のようです。
そして仏教への深く本質的な理解の深さにも瞠目します。

我々が一般に仏教といってイメージするのは、葬式での慣習・・・仏壇とかお墓とか、お寺へのイメージ・・・ともかく日本にある古い習慣、習俗の一部、全般? などど獏としてつかみどころがないでしょう。
正直上記で書いたことで本来の宗教としての仏教の本質を理解する助けになることはまったくありません。

では仏教とは何か、と問われたら、この本を読むとよろしいです。
仏教は世界中で数億の信者を抱える巨大宗教ですから幾多の解釈があって当然ですが、その発祥時の理念と思想は分かります。
そう、ここでシッダールタが悩み、感じることは、まさに発祥時の原始仏教そのものだと思います。


ps
私はボクシングが好きで毎週世界の試合を見続けているのですが、正直同じチャンピオンとして称号を持つ者にも格差、レベルがあります。
ボクシング史上に残り語り伝えられるほどの超1流。
現役世代では圧倒的な1流。
まぁ強いと言える2流。
運が良かったね、というような3流とあるのですが、ノーベル賞受賞者レベルでもそれはきっとあるでしょう。

その点、ヘルマン・ヘッセはまさに1流中の1流と思いました。

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May 18, 2007

キャッチャー・イン・ザ・ライ   サリンジャー&村上春樹訳

やはり本には読むべき年代というものがあるのでしょう。
主人公の「僕」に感情移入出来なくて困りました。

ご存知の方は多いと思いますが、この小説は、大人の社会に向かう少年が、思春期特有の繊細さから、欺瞞や偽善や世間の体面なんていうゴマカシがどうにも耐えられなくて、寄宿生の学校から家出し、NYを数日間彷徨するという話ですが、「僕」は終始意気地がなく、展望が甘く、考え足らずなのでイラつきます。

まぁ、現実の世界では、誰でも意気地なんてないんであって、ここでヒロイックだとフィクションでしょう、ということをサリンジャーは言いたいのでしょうけど、どうもね。


ただフィービーという主人公の妹が極めて魅力的なキャラクターとして登場し、そこは読みどころです。

《それから僕はレコードの話をした。
「あのさ、君のためにレコードを一枚買ってきたんだ。でも途中で落っことして粉々になっちまった」。「わりに酔っぱらっていたもんだからさ」
「そのかけらをちょうだい」とフィービーは言った。
「しまっておくから」。
彼女は僕の手の中にあるかけらをとって、ナイト・テーブルの引き出しに入れた。》

イイでしょう。ココは。
この後もともかくこのフィービーは可愛らしくイジラシク魅力満点です。
この娘の言動だけは全部抜書きしたいくらいだ。
サリンジャーには、できたら彼女を主人公に1本書いて欲しかったね。

ps
「未成熟なもののしるしとは、大儀のために高貴な死をもとめるこだ。その一方で成熟したものしるしとは、大儀のために卑しく生きることを求めることだ」
ラスト近くに出てくるこの文章は、作者テーマへのアンチテーゼでしょうか?

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March 25, 2007

路傍の石  山本有三

はい、今更ですが、読みました。
きっかけはNHK、BSでやっている「名作平積み大作戦」で取り上げられて、昔の記憶が蘇ったからです。

泣いたんですよ、この本!
子供の頃読んで泣きに泣いたのは、コレと「フランダースの犬」の二つ。
「フランダースの犬」もいつか記事にします。
題名だけは決まっているんです。
「六本木の夜に泣いたフランダースの犬」です
意味不明だと思いますが、一読、感動すること間違いなしの記事になるでしょう(笑


この本、昭和12年頃に書かれたものですから、展開も文体も古いです。
でも貫かれている価値観まで古くなったと思いたくないです。
文庫の発行は昭和55年ですが、平成18年までに36版!
日本も捨てたものではないです。

私、若者の成長を描く教養小説って弱いんですよ。
「苦労は俺の先生だ。背中に重たいものをのっけられた時、こん畜生と跳ね返す力から時代の主人は生まれるんだ」
なんてセリフに弱いんです。

コテコテですが、もっと書きます。
「人生、何が厳しいと言って食うより厳しいことなんてありゃしない。人生という砥石でゴシゴシ擦られなければ光るようにならないんだ。艱難汝を玉にす、だ」
なんてセリフは娘たちに一番言いたいことです。
ウチはジジババから過剰流動性が流入して甘いんだよ。

戦前、戦中、戦後の風俗が分かる処、日本の強さを単純に誇る教師の感想なんかも良かったな。
アレが自然な感情だと思います。

格差社会と言ったって、下流社会といったってこの本で描かれる生活から比べれば随分と豊かです。
でも今更この暮らしは出来ない。
だからこそ、吾一みたいな気持ちは忘れたくないですね。


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March 07, 2007

美しい日本の私-その序説-    川端康成

ノーベル文学賞受賞記念講演と、そのサイデンステッカーの英訳です。

美しい日本。
最近、総理の政権構想にもなっていますが、そもそも日本における美意識とは何か?
日本的美学とは、なんなのか?
改めてそう問われると、はっきり答えることは難しいですね。
この本は、その回答を、日本を代表する文学者、川端康成が簡潔に語ってくれます。
講演録なので読みやすく、分量も30pほどなのですぐ読めます。

昨今、哲学から世界名作小説の簡略版などともかくお手軽に分かったつもりになる本が大流行ですが、どうせ簡単に教わりたいなら教師は1流の方を選びたいものです。

西行、良寛、利休に明恵上人。
東洋絵画から平安文化、文学を経て陶芸の世界までの本質を、川端流に解釈、読み解きますが、単なる解説に終わらず、その文章自体が芸術なので1粒で2倍美味しい1冊です。

英語のお好きな方なら、英訳の部分も参考になると思います。

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October 13, 2006

プールサイド小景・静物 庄野潤三

一読して驚愕。
第三の新人といわれる庄野潤三さんの代表的な短編集からの1編ですが記事にします。

「舞踏」
舞踏という言葉は、意味は明瞭でも今時あまり使わない言葉です。
イメージするのはベルサイユ宮殿の舞踏会とか?鹿鳴館とか?
あまり関係ない世界の話しみたいですね。

そんな題名の小説はこう始まります。
「家庭の危機というものは、台所の天窓にへばりつている守宮のようなものだ。
それは何時からと云うことなしに、そこにいる。その姿は不吉で油断がならない。
しかし、それはあたかも家屋の内部の調度品の一つであるかの如くにそこにいるので、つい人はその存在に馴れてします。それに誰だってイヤなものは見ないようとするものだ。」

なんとも陰気な出だしです。
時代は昭和25年(今と比べると生活全般が「暗い」です。)
話しは結婚5年目、三才の娘のある安い俸給をとる夫が、職場の19才の同僚と浮気。
まだ24才で少女の面影を残す妻(この頃は結婚が早かった)の苦しみが描かれます。

浮気をしている夫が堪え切れずに泣いてしまう妻に言うセリフとして、こんなことも書いてありますが、(以下の文章は略してます)
「人は誰だってめいめい不幸なんだ。みんな、その人の不幸を背負っているんだ。誰もが孤独で、そして自分の不幸に耐えながら生きているんだ。自分だけを見つめたらいけない。生なくっちゃ、いかんのだ。なんでもかんでも、生きいかなくっちゃいかんのだ。」
言うまでもなくこの小説は道徳論とか、人生訓のたぐいを訴える作品ではありません。

では何なのか?

苦しむ妻が、むずがる子供を抱いて、小さな声で歌いながら家の前を行きつ戻りつし、
寝かしつけた後は、深夜の路上で縄跳びをするシーンがあります。
罪悪感のある夫は部屋でその音を聞いています。
読んでいると鮮烈な映像がアタマの中に浮かびます。

そして後半。
未読の方の興を削ぐので書きませんが、私はこの展開と会話には驚きました。
なんで突然、こうなるのか?
自分の中で未だに消化、解釈できません。
残っているのは、容易に言葉に還元することを拒否する、ひたすらに鮮やかなイメージのみ。

だから文学なのだ、と思うのです。
小説だけが垣間見せることが出来る風景。
そんな処でしょうか。

この短編集では他に「プールサイド小景」と「静物」を記事にします。

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June 25, 2006

草枕   夏目漱石

一人の画家が山奥の湯治場に行き、禅僧や女性と交流し、その内面が語られるというそれだけの小説です。
ストーリーはなきに等しく延々と続く独白が綴られるのみですが、その内容の充実ぶりは比類がなく、この作品は小説の天才が到達した一つの境地でしょう。

 言葉の音韻に聞き惚れ、その色彩、暗喩、イメージなどが十重二十重の構造を持ち、読者の中で複雑精妙に響きあい、結果、創造される世界はじつに無限の広がりを持ちます。

そしてその無限の広がりと底知れぬ深みを表現することこそが、人間性の探求という芸術創作ということなのだなぁ、なんて納得して読み終えました。
ラストの1行では、無明へと落ち続ける崖から転落させられたような気になりました。

文学とはかくあるもの。
そんな気になる一作でした。
 

以下極めて美しい風景描写と人生への示唆にとんだ1文を引用します。

「静かな庭に、松の影が落ちる。遠くの海は、空の光に応うるがごとく、応えざるがごとく、有耶無耶のうちに微かなる、輝きを放つ。漁火は明滅す。
 月はいよいよ明るい。しんしんとして、木蓮は幾だの雲華を空裏に奉げている。
泬寥たつ春夜の真中に、和尚ははたと掌を打つ。声は風中に死して一羽の鳩も下りぬ。」


「人と争わねば一分が立たぬと浮世が催促するから火宅は免れぬ。いわゆる楽しみは物に着するより起こるがゆえに、あらゆる苦しみを含む」
「明暗は表裏のごとく日のあたる所にはきと影がさすと悟った。-喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。」


唯一の難点は、あまりの名文が続くが故に、1-2pも読むとなんだかお腹が一杯になってしまうことですね。

なんだか漱石がマイブームになる予感です。

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February 01, 2006

海辺のカフカ(下):2       村上春樹

以下、覚え書きの続きです。

「『物語のなかに拳銃が出てきたらそれは発射されなくてはならない』
必然性というのは、自立した概念なのだ。
それはロジックやモラルや意味性とは別の成り立ちをしたものだ。
役割としての機能が集約されて、役割として必然でないものは、そこに存在するべきではない。
役割として必然なものは、そこに存在するべきだ@チェーホフのドラマツルギー」

「迷宮という概念を最初につくりだしたのは古代メソポタミアの人々で、複雑なカタチを賞賛し具体的には動物の腸であった。
つまり迷宮の原理は自身の内側にあり、それは君の外側の迷宮性と呼応している相互メタファーである。
君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、内にあるものは外にあるものの投影だ。
だから外の迷宮に足を踏み入れることによって、君自身の内にセットされた迷宮に踏み込むことになる。
それは多くの場合とても危険だ。
ヘンゼルとグレーテルのように森は罠を仕掛ける。
どれだけ用心して工夫しても目ざとい鳥たちが目じるしのパンくずを食べてしまう」


素敵な文章としては・・・
「その微笑みは、小さな窪みに乾き残った夏の朝の打ち水を想像させる」

「濃密な静寂だった。空気は湿気を含んで重く淀み、そこにはかすかな猜疑と陰謀の気配があった。さまざまな大きさの無数の耳がまわりの空中に浮かんで、じっと2人の気配をうかがって・・・2人は真昼の暗闇に包まれ、何も言わずにそのまま凍りついていた。」

「死者とともにひとつの部屋にいると、ほかの音が少しづつ消えていくことに気づく。まわりの現実の音が、次第に現実性を失っていく。意味のある音は、やがて沈黙だけになる。その沈黙が海底に積もる泥のように、だんだん深くなっていく」

「本当の答えというのはことばにはできないものだから。それで言葉で正しく伝えられないものはまったく説明しないのがいちばんいい、たとえ自分にたいしても」
この小説は、「世界の境目」から村上春樹はその「曰く言い難いなにか」を懸命につたえようとした一編だと思います。

最後にすべての殺し合いへのメッセージとして
「圧倒的な偏見をもって強固に抹殺するんだ」
こういう命令が世界からなくなりますように。

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January 31, 2006

海辺のカフカ(下):1 村上春樹

下巻で話しはいよいよ佳境にと入ります。
はたしてカフカくんの行き着く先は?
ナカタさんの運命や如何に!

下巻で読み進むにつれどうにも違和感が拭えず、読書のリズムを乱すのが頻繁に挿入されるセックスシーンでした。
春樹ワールドはどこかCGで描かれたような感触があります。
その電子的ともいえるツルリとした外表に、汗や尿などの体液や体臭は似合いません。
オルフォイスの伝承が使われるヴァーチャルワールドの怪異話しとして楽しみたいのに、その骨格の一部をオイディプス王から取材された生々しいセックス・シーンには、必要のない汗が残るような不快感があり正直その効果も疑問でした。

ただそんな不満を吹っ飛ばし物語りを力強く引っ張るのが星野青年。
ヴェートヴェンの大公ソナタに感動しその生き様に惹かれた元自衛隊員でトラック運転手の彼は、「自分のあるべき場所にいる」という宗教的帰依にも近い心情から(釈迦の弟子の茗荷の話しがイイです)行動し、自意識過剰気味の登場人物が多い中で抜群の魅力を発揮します。
この人の造形が一番良かった。外伝を読みたいくらいです。


後はともかく唸るような挿話がいっぱいなので以下、一部意訳した覚え書きです。

「読者とのあいだに預言的なトンネルを見つけられなかったら、それは詩としての機能をはたしていない」

「人類が柵をつくるようになったとき文明は生まれた。そしてこの世界では高くて丈夫な柵を作る人間が有効に生き残るんだ。それを否定すると君は荒野に追われることになる@ルソー」

「純粋な現在とは、未来を食っていく過去の捉え難い進行である。あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ
@アンリ・ベリグソン」

「自己意識とは、自己と客体を別個に認識するのではなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に自己をより深く理解することが出来る。我々は自己と客体を交換し、投射しあって、行為的に自己意識を確立している。@ヘーゲル」

「啓示とは日常性の縁を飛び越えることだ。啓示なしになんの人生だ。ただ観察する理性から行為する理性へと飛び移ることが大事なんだ」

「我今仮に化をあらはにして話るといへども、神にあらず仏にあらず、もと非情の物なれば人と異なる慮あり。只これ非情なり。非情のものとして人の善悪をただし、それ従ういわれなし。雨月物語@上田秋成」
この意味は
「今私は仮に人のカタチをしているが、神でも仏でもなく感情もないのであるから人とは違う心の動きを持っている。人とは違う心だから人の善悪も判断しないし、その基準でも行動しない」
ということです。

今日はここまで、以下明日

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January 18, 2006

夢十夜   夏目漱石

良く知られたその穏やかな沈思の表情が文豪らしいのか、或いは文豪らしくないのか?
「我輩は猫である」などから難解な印象はない反面、エキセントッリクな刺激もないようで、子供っぽい感じすら持たれるかもしれないが、そんなレベルの作家ではないです。
実体は耽美を極める三島や川端ですら、端に避けさせるような文学の王道路線一直線の男。

この小説は十夜というとうり律義に10話ある。
どの夢も深い。
深すぎて落ちたら二度と覚めることのない、永遠に埋没してしまうような怖れのある小説。
知られざる夜の都の底に沈んでいるような十夜の夢。

第一夜は、100年の時をまたごうとする性と死の寓話。
死ぬ事を伝える女に、ただ待つことを選ぶ男。真珠貝は闇の中に鬼火のような光りを放ちます。

第二夜は、追えば追うほどせせら笑って逃げていく到達の幻影。
「誇り」が笑い者になる葛藤が真に迫る。

第三夜は、美しき本格派ホラー。
文豪はやすやすと恐怖小説の極点を描いてみせる。

第四夜は、「今になる、蛇になる、きっとなる、笛が鳴る」漱石なら言葉を実体化出来るのだ。
「深くなる、夜になる、真直になる」夜の川は夜の国に繋がっている。

第五夜は、この夢は神代の時代の戦に迷い込む。
恋の行方は敵となった天探女により奈落に落ちる。

第六夜は、運慶を題材に、ミケランジェロにも通じる説話で「芸術を生む奇跡」を夢みる。
「大自在の妙境」とは、こんな小説です、という同意反復でもある。

第七夜は、旅は常に期待と同じ位の不安も生む。
行き先の分からぬ船に乗り絶望するのは、人生への暗喩なのだ。

第八夜は、床屋という日常の縁をふと乗り越えると異界であった。
異界には見ようとしても見えないモノがある。見てはならないモノもある。

第九夜は、不在の父親の無事を祈る母子の孤独と不安の夜。
土塀の続く屋敷町の神社。人は夢のなかでもその運命の囚人なのだ。

第十夜は、善良な正直者の庄太郎は、女について行き延々と豚と戦うことになる。
時に夢は悪夢と可笑し味をない交ぜにし笑いと恐怖は分かち難く溶けあい化物の相貌を見せつけます。

今やこれだけの文章を書ける作家はいない。
これはカラバッジョの絵画のやモーツアルトの楽曲のように、人類が再び創造することの敵わぬ領域の作品群です。
この短編集の凄味は時代を追って高まると思う。
オムニバスとして映画化してみたい1本でもあります。

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January 07, 2006

博士の愛した数式 小川洋子

随分売れていて映画の公開も間近かですね。
映画は博士役に寺尾聡さん、家政婦役に深津絵里さんとキャストがピッタリに思えます。

この小説、私は手に取らなかったのですが妻が感動していたので読んでみました。
良く出来た作品だと思いますが、個人的な評価は微妙です。
結局、アルジャーノン・パターンでしょう、と意地の悪い気持ちになってしまいます。
何故そうなるか、といえば私が数学オタだからでしょう。
自分の好きな領域はどうしても好みが細かく小姑のごとくウルサイことを言いたくなるものです。

冷静に読めば非常に良く書けた小説であることは確かです。
作者の小川洋子さんは、「妊娠カレンダー@芥川賞」でその筆力には感心していたのですが、この本でも自然でありながら、読者を一気にその場に連れ去るような表現力は見事で、特に夏の嵐の描写は、雷と雨の匂いまでが漂ってくるようなリアルな読後感を残します。

数学についても、おそらくバリバリの文系だった小川さんがその美しさに目覚め、未知の分野であった領域に感動した様子をまるで数学世界への「旅行記」のように書けていて、
特に「数学の真理は、道なき道の果てに、誰にも知られずにそっと潜んでいる。しかもその場所は頂上とは限らない。切り立った崖の岩間かもしれないし、谷底かもしれない」
という文章は、数学の本質を描いた素晴らしい表現です。

小説には、友愛数や完全数、メルセンヌ数など私に馴染みのモノが多く、やってるやってると思いながら読みました。その部分の文章もとても巧みですね。
そして江夏に繋げていく。
家政婦→博士→子供という三角形を結び付けるのが江夏なのですが、たんに江夏の背番号28が完全数ということだけから連想したとしたら大したモノです。
「江夏」は「オイラー式」に匹敵する立派な「象徴」ですからね。

その博士の愛した数式は、e^πi+1=0(オイラー式)というモノなのですが、それも非常に美しい比喩で表現されています。
ただそれは象徴のレベルで使われ一切の解説がありません。
これは「単調関数である指数関数と周期関数である三角関数が、虚数を取り込むことにより結びつく@吉田武」
一般人にはなかなか難しい式なのです。

「オイラーの贈物@吉田武」という本があり、この1行の式を解説する為に無限数列の極限から微積分、テイラー展開を経てド・モアブルの定理、三角関数の級数展開までやって実に300p以上かけてやっとたどり着きます。
私は途中で投げ出しましたが、(文庫で買ったのが間違い!こういう本の文庫は小さくて弱くてダメですね)この小説を読んでまた挑戦したくなりました。
数学カテゴリーでは今の「リーマン予想」が終わったら、「フェルマーの定理」をやって、その次にこの「オイラー式」をやりましょう。

ps
この本に出てくる連立方程式を使う問題は、暗算で1分掛かりました。
かつて唯一のプライドだった計算力は大分遅くなっています。
10代の頃なら半分の時間で出来たと思う。
年をとるとこういう能力はだんだん落ちてきます。

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December 21, 2005

海辺のカフカ(上) 村上春樹

今や中国から欧州、米国にいたるまで世界で最も注目されている作家、村上春樹。
このワールド・ワイドな春樹現象は、彼の創造する世界の魅惑とともに、極めて翻訳に向いた文体にもあるのではないか、という感想を持ちました。
「若い読者のための短編小説案内@春樹」の中で翻訳することにより文体に影響を受けたという一節があり、なるほどこれは翻訳小説のようでもあり相互変換には向いた文体かもしれません。

この作品の主人公は15才のカフカくんと老人のナカタさん。
カフカくんはワークアウトして体を鍛え、タフであろうとする、なんだいつから大藪春彦になったんだ村上春樹という出だしですが、すぐにもう一人の主人公ナカタさんの登場により小説世界は、幻想と現実に境をあいまいに展開します。
それは「電球が発明されるまでは夜の漆黒の闇と内なる魂の闇が境界なくひとつに混じり合い直結していたんだ」のようにです。

家出をするカフカくんと知的障害老人のナカタさんは、ともに世間一般から見れば外れ者ですが、カフカくんは周囲の人から好意を寄せられ実に居心地の良さそうな図書館に住み込むことになり、都からホジョを貰っているナカタさんは日がな一日、空き地と猫とおしゃべりをするという生活。
これは逃避の物語に見えて実は競争で摩耗する立場からみれば理想境での冒険堪にも読める気がします。
本を読む人なら、「時間にみつけられまいと息をひそめていると図書館の一部」になりたいでしょう。
ナカタさんの生活も安らげそうです。

そんな2人はしだいに不気味な波乱に巻き込まれ、成長への試練をへていきますが、山小屋などでの描写など原初の大自然への深い洞察など印象的でやはり読み応えは抜群です。

スポーツの代償行為としてロードスターの改造車を飛ばすこと。
ワークアウトを「これは世界でいちばん孤独な運動なんだ。これをもっとも熱心にやるのは独房の囚人だ」と評します。
オープンスポーツとウエイトトレーニング。そして図書館。私の趣味が三つとも出てきました。
これは久々に波長が合うわけです。

村上春樹は「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」の三作品までは気に行って読んでいたのですが、「ノルウエィの森」がまったくダメで、短編集、エッセイは愛読しつつも長編は御無沙汰だったのです。

以下は覚え書きです。
1)「流刑地にて」@カフカへの評価
「カフカは僕らの置かれている状況よりむしろその複雑な処刑機械のことを純粋に機械的に説明することによって僕らの置かれている状況をありありと語る」

2)ある種の不完全さを持った作品は、それが不完全であるが故に人の心を引きつける。
シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。
退屈でないものに人はすぐ飽きるし、飽きないものは退屈なものだ。
改造ロードスターで聴くシューベルト@ニ長調ピアノソナタについて。

3)プッチーニには、永遠の反時代性が感じられる。たしかに通俗的だが不思議に古びない。それは芸術としてひとつの素晴らしい達成だ

みななるほどという記述ですね。

著者が意図せざる意味で私が捉えた番外の覚え書き。
1)ルールをまもっているかぎりおそらく危険はない。森は受け入れ見逃してくれる。いくらかの安らぎや美しさも分け与えてくれる。しかしいったんルールを踏み外すと、隠れている沈黙の獣たちは鋭い爪で僕をとらえてしまうかもしれない。

これは自然への畏怖を表わした文章ですが、金融市場で取引する者のサバイバル術にも通じていると思います。

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October 14, 2005

東京奇譚集    村上春樹

村上春樹が奇譚集を書けば、とりあえず読んでみたいものです。
短編集なので以下、各作品の感想です。

「偶然の旅人」
村上春樹は、透明感のある生活を描かせると実に巧みです。
現実に透明感のある生活などは存在しませんが、それにリアリティを与えることが出来るのは、
この著者が透明と通じる空虚さを抱えているからだ、と思います。

この小説の主人公はゲイの男性なのですが
「女性とのセックスは粗暴でグロテスクであるように思え、性的に興奮した女性が身体全体から発する微妙な匂いをどうしても好きになれなかった。」
などという文章には、なるほどね。
ゲイの人はこういう風に思うものなのかもしれないな、と不思議な納得をさせられます。
村上さんには奥さんがいますし、私も男性相手の性行為は理解不能ですが、読むと自分にはなかった感覚が伝わってくるような描写は力のあるものです。

「ハナレイ・ベイ」
唐突に断ち切られる愛する者との別離。短編でも複数の登場人物に血が通ってます。
喪失の現場となるカウアイ島の寂しげなビーチの雰囲気が秀逸でした。

「どこであれそれが見つかりそうな場所で」
実存への不安。陳腐な題材で設定もありがちですが、
映画が映像であるように、つまるところ小説というのは文です。凡百のレベルは超えた1作です。
「日々移動する腎臓のかたちをした石」
メタフィジカルな構成をもつ物語ですが、その語りはあくまで自然です。

最後は「品川猿」
この人は独特のユーモアを持って動物を描きます。
この作品ではその描写が冴え、市井の人が抱える自身でも気づかなかった虚無が露になるラストが鮮やかです。空手部の部下と夫と猿の掛け合いも、安西水丸の描くマンガのようで楽しかったです。
個人的には1番気に入りました。

高度産業社会は(異常なほど)物質的には豊かな社会を実現しました。
反面、高い効率を求められる社会において、人はその「動物性」を失わざる得ないという逆説があります。
村上春樹はその欠落を見つめ続ける作家だと思います。

ハードカバーで買って後悔のない1冊でした。

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August 18, 2005

暁の寺(豊饒の海・第三巻) 三島由紀夫著

夕焼けが大好きです。
サンセットクルーズなどでは、ヨットの突端に座り込み、食い入るように見つめます。
ヨットが旋回するとそれに合わせて動きます。
そんな自分が不思議でしたが、この本のP16から夕焼について素晴らしい記述があるので抜粋します。

三島由紀夫に云わせれば「すべての芸術は夕焼」だったのです。

「芸術というのは巨大な夕焼です。一時代のすべてのよいものの燔祭です。
長く続いた白昼の理性も、夕焼のあの無意味な色彩の濫費によって台無しにされ、永久につづくかと思われた歴史も突然自分の終末に気づかされる。
美が立ちふさがって、あらゆる人間的営為を仇事にしてしまうのです。
現前するものがすべてであり、空気は毒に充ちています。なにも始まらず、たた、終わるだけです。

そこには本質的なものは何一つありません。
夜の宇宙的な死と無機的な存在も、昼のすべての人間的なものもありません。
夕焼はただ戯れであり、あらゆる形態と光りと色との、無目的な、しかし厳粛な戯れです。
夕焼雲はあらゆるシンメトリーへの侮蔑でありこの秩序の破壊は、もっと根本的な破壊と結びついているのです。

芸術はそれぞれの時代の最大の終末観を、何者より早く予見し、準備し、身を以って実現します。そこには、美食と美酒、美形と美衣、およそその時代の人間が考えつくかぎりの奢侈が煮詰まってます。そういうものすべては、形式を待望しますが、僅かな時間に人の生活を悉く攻略し席捲する形式が夕焼ではありませんか。

もっとも微妙なものの気難しい美的判断が(あのオレンジ色の雲の縁の芳醇な曲線のことですが)大きな天空の普遍性と関わり合い、もっとも内面的なものが色めいて露になって外面と結びつくのが夕焼です。

すなわち夕焼は表現します。表現だけが夕焼の機能です。
人間のかすかな羞恥や、喜びや、怒りや、不快が、天空的規模のものとなること。
人の内臓の見えない色彩が、この大手術によって、空いちめんにひろげられ外面化されること。
もっとも些細なやさしさや慇懃が世界苦と結びつき、人が昼の間に頑なに抱いていた無数の小さな理論が、天空の大きな感情の爆発、その華々しい感情の放恣に巻き込まれ、人々があらゆる体系の無効を悟る。つまりそれは表現されてしまい・・・終わるのです。

夕焼は迅速です。それは飛翔の性質を持っています。
この世界の翼なのです。
世界は飛翔の可能性を垣間見せ、夕焼の下の物象はみな、陶酔と恍惚のうちに飛び交わし・・地に落ちて死に至るのです」

三島の絢爛たる美文は、狩野派の金色の絵巻きのようです。

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July 09, 2005

マラルメ伝 絶対と日々   J・L・ステンメッツ著

思春期、世界が目の前に開けた時、文学の極限を見ようとする私に、
ステファンヌ・マラルメは伝説の霧の彼方にその姿をかいまみせる偶像でした。
その決してかなわぬ到達への憧憬は、それゆえに長く尾を引き今この本に挑戦します。

この本はマラルメの伝記ですが二段組み700ページ。
極めて美しい装丁と製本がなされ、伝記という範疇を遙かにこえる美しい文体を誇ります。
値段が1万3千円!(←前にも書いたよね)でも安いと思うよ(笑

第一部:人はどのようにして詩人になるのか

母を亡くし、入れられた寄宿舎では成績不振のマラルメ、
父は再婚し義母との間に子供が出来ると、孤独感は深まります。
さらに14才の時、実の妹までが亡くなります。
詩人としての未だ片鱗はありません。
16才くらいからマラルメは詩への興味を持ち始めます。
詩作しては友人に読ませ、初恋も経験します。

第二帝政の道徳観を揺るがしたボードレールの「悪の華」に衝撃を受け、一生の目標にします。
またポーから深く影響を受け、後に英語教師として生きるきっかけを掴みます。
生涯最初の詩篇「四方を壁に囲まれて」を完成。
初期の詩はボードレールのパスティシュにとどまり、大学受験も失敗します。
しかし模作の中から「驚くべき明晰さ」を身につけ始め、ついに評論家として世に出ます。

周囲からは地道でステイタスの高い登記所の役人としての生活を送ることを期待されますが、
マラルメが憧れたポーの言葉である英語の教師を目指します。

説得に成功したマラルメは詩篇を発表し、生涯の友人になるルフェビュールやカザルスなどと交友を深め、
「大鴉」を始めとするポーの全詩篇の翻訳を試みますが、これは失敗。

一方、女性も含めたグループでフォンテーヌブローの森を散策しては青春を謳歌します。
また内省癖が顕著になり、その内省はマラルメの特徴となる情動的というより、
奇妙な「石胎生:ステリリチ」を持ちます。

この石胎生という性質は、後のマラルメの詩篇の際立った特徴になります。
曰く「結晶質のように透明な特質は、その詩を遥か遠方に輝く星辰たらしめ、
達することの出来ない(蒼穹)に向かおうとする虚しい跳躍と、脳髄による放蕩である」ということ。

さらに高踏派の詩人の集まりである「土曜会」への参加を試み「放蕩息子」の評判を得ます。

母と妹を亡くした孤独な少年マラルメは、じょじょに詩人マラルメへと変貌を遂げていきます。

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March 23, 2005

「狂人日記」 色川武大

目をつぶり思い出の記憶をたぐり、しだいしだいに細かいところまで思い出していると、色々なことが蘇ってきます。その時かわされた言葉、流れていた音楽。
これはいわば記憶の中のビデオ・レコーダーの再生スイッチを自分の意志で押すようなモノです。
自分の中で、記憶なのだというコントロール下にあるからすぐ消せる。
幻覚や幻聴というのは、自分で再生スイッチを入れていなくても勝手に脳内ビデオが暴走して再生されたり、
悪夢のように編成されてしまったりして、
さらにその臨場感が現実と見分けがつかないほどになってしまう状態のようですね。

この小説は、そんな病気に悩む一人の男性の日記形態の物語なのですが。
作者の色川武大自身がナルコレプシーを患っていて、幻覚幻聴に悩まされていたせいか描写が非常にリアルで恐ろしく、病人の苦しみが伝わってきます。
精神の病を患った男性が、一人の女性と知り合い彼女の献身で、救われようとするのですが、
やはり病気のもたらす困難は大きく現実は厳しさを増していきます。
この間の男性の心情がとても良く分かるのです。
ダメな自分を背負おうとする女性への引け目、遠慮、
そしてそんな思いから、ついそれとは裏返しの言動をとってしまう矛盾した気持ち。
しだいに追いつめられていって、人里離れた廃屋にたどり着くのですが、
個人的にはここの周辺の描写が好きです。
落ちるところまで落ちたという終着での不思議な詩情と安心感。
女性の帰りが間遠になっていく終りの部分もいいな。
孤独なのだけれど、他人を嫌な目に合わせないですむ方が楽でしょうね。
「帰ってこなくいいよ」という主人公の言葉に、私は憐憫と共感を覚えました。

私は幻覚というものは、なんとなくボヤケタ幽霊のように見えるものだと思っていたので、
「ビューティフル・マインド」という映画を観て、
それがクッキリとリアルで本人には本当に現実と見分けがつかないのを知って驚きました。
幻聴の経験もないのですが、
去年、大型テレビ(55型)を買ってホラー映画を見ていた時、シューシューという音が背後から聞こえてくるのです。ガラス戸越しに背後のキッチンを振り返っても何事もないように見える。
妻は目の前にいるので料理をしている音ではない。
まだテレビに馴れてなかったし、スピーカーも大きかったし、
映画自体も初見だったので、こんな効果音でも入っているのだろう、と思っていたのですが、何かヘンなのです。
深夜だったし、見ている映画が映画だったので、ちょっと、イヤな感じになりました。
結局、妻が鍋を掛けっぱなしにして空炊きしている音だったというオチなんですけど、
これが人声の幻聴として、アレコレ言われたら、かなり不味い精神状態になるでしょうね。
これはそんな病気になってしまったらどうなるのだろう、というちょっと怖い疑問をリアルに疑似体験させてくれる1面も持つ、色川文学の集大成的な小説でした。

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January 30, 2005

異邦人 カミュ著

フランス文学を代表する不条理を描いた小説、と思っていると、とっつきにくいけど、
実際に読んでみれば,文庫130Pの小編です。

バルトの云う、無垢なるエクリチュール、を体験したくなり読みました。

ムルソー(「死」と「太陽」の合成語)の行動原理は,
一般人でも夢幻のなかでなら(世間的な体裁や縛りがなければ)充分ありえることであり、
その夢幻の人を,カミュは「異邦人」として描いたのだと思いました。

小説は全編にわたり文章が素晴らしく、詩的な音韻に満たされた小宇宙的な世界では、
ムルソーの感覚(殺人は太陽のせいであり、自分の処刑には大勢の見物人の憎悪の声を望む)は、
むしろ非常に論理だち、リアリティがあるのではないでしょうか?

リゾート地(生活のくびきを逃れ自由な感覚と夢想のなかで呼吸できる時)で、
人が太陽と海の浜辺で、ひとときの午睡をまどろむ時、
灼熱の太陽が理性の条理を溶かしたその刹那、見知らぬうちに、ふと誰の傍らにも寄り添う時がある、
澄みきった奈落へ誘惑。

その一瞬を切り取ったこの作品は、そんな見知らぬ誘惑を人に気づかせるが故に生命力を持つのではないか? と思います。


文章が非常に美しいので、さわりを少し書いてみましょう。

われわれは長いこと浜を散歩した。太陽はいま圧倒的だった。
砂の上に、海の上に、ひかりはこなごなに砕けていた。

彼の姿が私の眼の前に踊り、燃えあがる大気のなかに踊った。
波音は正午よりもっともの憂げで、もっとおだやかだった。

ほんの一瞬、私は夏の夕べのかおりと色とを感じた。
愛する街の、また、時折り私が楽しんだひとときの、ありとある親しい物音を、・・
すでにやわらいだ大気のなかの、新聞売りの叫び。公園のなかの最後の鳥たち。
曲がり角での、電車のきしみ。港の上に夜が降りる前の、あの空のざわめき。
夏空のなかに引かれた親しい道が、無垢のまどろみへも通じ、また獄舎へも


うーーーん、カッコ良いぜ、カミュ。
これからは、カミュ様と呼んでしまう。

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