魔術的芸術:9 アンドレ・ブルトン
大いなる統合:ギュスターブ・モローとポール・ゴーガン
モローはその空漠とした美術館に「時代物の」額縁とともに、
「魔法にかけられた魔法つかい」のように幽閉されている。
ドガの「オリンピアの神々に時計の鎖をとりつけた」という論評と、「パルナッソス神話の安物市」と評された評価は不当である。
「モローは本当の呪術師である。彼は神秘の閾を押し開いたことを自負していい。
自らの時代を混乱に陥れた栄光をほしいままにできる。
彼岸と神秘主義に病んでいる芸術家たちに、甘美な死者たちへの、かつて彼が時間の鏡のなかに蘇らせた死せる女たちへの、危険な愛を教えたのだ。
古い神々の系譜と象徴と退廃に憑かれた、この痛ましい強迫観念、死に絶えた宗教において崇められていた、神々の淫蕩へのあくなき関心、この世紀末の傷つきやすい心の、甘美な病になりおおせたのだ@ジャン・ロラン」
「『ユピテルとセレメー』や『一角獣の貴婦人』に庭への闖入にいたるまで、既視感に囚われる夢遊病的世界を支配しているのは、グノーシス派の護符このかた忘れられていた魔術的な「眼」そのものである。
死の秘密を教えられた人の、いわくいいがたいまなざしをオルフェウスと交わし合う女司祭の眼を、永遠の若さを征服するアルゴー船員の眼を導かなければならなかった。
それは存在のおよそ人を近づけない深みからほとばしりでた世界である」
「私は自分の見るものも触れるものも信じない。私が信じるのは、私が見えないもの、感じるものだけである@モロー」
いいしれぬ感覚によって自分という「マティエール」に引き付けられた画家が、みずからを描き出そうとするときに「天空を見つめる大いなる半獣神」が呼びだされるのだ。
「しかし芸術の本質的な機能は、本当に眩暈を定着することなのだろうか?」
この「イデオローグ」の内面への亡命に対応するのが、ゴーガンの漂白である。
「論理的にいって、異国や滅亡した世界のさいはての地を求めることは、絶対へといたる@ジャリ」
ゴーガンの作品は、原始主義とひとくくりされがちだが、それはヒューマニズムではなくタブローの物質的諸要素そのものから出発する神話の探求である。
印象派は純粋にフォルムの探求に終始したのに対して、ゴーガンの絵画は物理学の後に来る形而上学として描きだす。
彼はポエジーのまま自らのうちに魔術師がいることに気づき、その魔術師について原始的定義ないしは近似値を与えたただひとりの画家なのだ。
人間の悲劇性の偉大なる証人であるゴッホは、心的外傷を変成し無化する疑いようの無い至上の天才というところまでは到らず、外見という壁を崩壊させたが、けっして壁の廃虚の上を飛翔はしなかった。
絵画の「古典的」な伝統の分裂は1914年ごろには頂点に達していた。
ロマン主義の系譜はその根源が見失われるほどに縺れ合い、魔術を奪還するためには1世紀半におよぶ努力の壮大な挫折によって清算されねばならないかに見えた。
キュビズムは物体を切り刻んでいたが、この物体に生命を与え返す力はなかった。
この本も後1章を残すのみ。次回で最後だと思います。


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