「寝ながら学べる構造主義」という本を、
さらに簡単に、いいかげんにまとめた2本目の記事です。
あんまり本気にしないで読んで下さい。
今回は社会史学者、ミシェル・フーコです。
フーコーの系譜学的思考とは、あらゆるモノには誕生日があり、
誕生にいたる固有の「前史」の文脈に位置づけてはじめて、何であるかが分かる、ということです。
例えば、ミケランジェロとルーベンスの絵画を見た時、現代の人にはほとんど同じように見えるかもしれません。しかし2人の活躍した年代は100年以上も違うのです。
ルーベンスが産まれた時、ミケランジェロは伝説の人でした。
このように、人は自分の経験していない歴史は認識出来ず、それゆえに正確は判断が下せない、
というのは人がつい忘れ勝ちなことです。
ある制度が生成した瞬間の現場、歴史的価値判断が混じり込まない段階を考察しようとしたのがフーコーです。
そんな研究の中でもっとも有名な発見は、正常/異常の境界概念です。
「狂気の研究」によると
精神病者の囲い込みは、欧州では17世紀頃都市の成立とともに行われ、
それまで狂人は、悪魔に憑かれた者として生きた教訓だったのです。
衆人の中で暮らすことは有意義な教化的機能を持ち奨励された存在でした。
それが狂気とは「何であるかが分かり」命名され分類され排除されました。
知と権力が結託したのです。
また国王二体論(王は生身の体と、国の体制を象徴する政治的身体を持つという考え)から、
王に反逆を企てた人間への罪が、「普通の体」を殺すだけなら不必要な残虐さを持つ、車裂きの刑、融けた鉛を傷口に流し込むなど凄惨になるのは、王に逆らった「政治的身体」を破壊する為に行われる、ことを発見しました。
不可視的な体制の象徴たる「王」に挑む「体」を、徹底して破壊することは現体制の安泰を約束します。
またフーコーは「性の歴史」において人が性を情熱的に語ることが、
やがて分類カタログ化され一種の制度「統御された欲望」のあり方として権力的に機能することを発見しました。
結局、フーコーの主張は、
あらゆる知の営みは、それが世界の成り立ちや、人間のあり方について情報をまとめてストックしようという欲望に駆動されている限り、必ず「権力的に機能」する。
ここでいう権力的とは政治的権力ということだけでなく、
人間が逃れられない「知」=正しきもの、という認識が生みだす、普遍の圧力の源泉になるということ、です。
さらにそれは「制度への疑いの眼差しをなげる」ことすら、一種の制度となり権力となりうる。
それを忘れて「権力への反逆」をにぎやかに歌う知識人をフーコーは軽蔑しました。
しかしこれは自己言及のパラドックスになります。
フーコー自身ですら自分の言質が権力になるわけです。
次回はバルト、究極のエクリチュールとは何か?
の予定だす。
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