« 北京の人にありがとう&今日みた街の光景に驚く | Main | 絶好のポイントで見ていたスーパームーン!@夕暮れのドライブで見た巨大月は一生忘れないだろう »

March 20, 2011

トリエステの坂道 須賀敦子@イタリア名画のような絶品の小説のような

御存知のない方に須賀敦子とは何者か、と問われれば、
「随筆家として究極の存在の一人です」と答えるでしょう。
そしてその作品世界は、随筆を超えた須賀敦子だけが書きえる世界を作り出す、とも付け加えます。

品格のある文章で語られる哀愁と詩情は、いわゆるエッセイ、随筆という範疇をはるかに超えて、自らの周囲の家族を語りながら私小説とも思えず、達するのは完全に独自の境地としかいえません。
それも全編傑作といえる出来で、一つの作品集のすべてで、これほど高い水準を維持している作家は、そうそう思い当りません。

12編の作品に様々な人々が登場しますが、須賀敦子の筆にかかれば全員が、イタリア名画の登場人物。
読んでいると美しい絵が浮かんできて、境遇の辛さや気持ちが伝わってきて、須賀はフェリーニかピエトロ・ジェルミか、という演出が冴え渡ります。
TVより読書で、節電に御協力を、ということで、是非どうぞ。

「古いハスのタネ」/叙情だけでない桁はすれの教養人でもあったという備忘録
詩の起源は、共同体が神あるいは神々に捧げた祈りにあると言われている。
13世紀にアッシジのフランチェスコが作った「太陽の讃歌」はイタリア文学史の冒頭である。
汎神論的なこの作品は、伝統的な聖書のレトリックをまさに離れようとしていた。

ルターのプロティスタンティズムは、それまで共同体のものであった祈りを個のものにしようとした人たちの選択だった。
こうして宗教も共同体から個人の物となっていく@16世紀のドイツ

祈りには共同体の祈りと、個人がひそやかに神と対話する祈りがある。
共同体の祈りが文学と分かち合ったのは、どちらもが言葉による表現という点だ。共同体にとどまるかぎり、祈りは魂を暗闇にとじこめようとしない。
個人の祈りは、神秘体験に至ろうとして恍惚の文法を探り、その点では詩に似ているが、究極には光があると信じている。共同体の祈りも散文も、飛翔したい気持ちを抑えて、人間と一緒に地上に留まろうとする。
個の祈りの闇の深遠を、古代人は知っていたのだろう。

共同体によって唱和されることがなくなったとき、祈りは特定のリズムも韻も形式も必要としなくなるから、韻文を捨て、散文が主流を占めるようになる。散文は論理を離れるわけにはいかないから、人々はそのことに疲れ果て、祈りの代用品として呪文を探し出す。

信仰が個人的であり、宗教は共同体的であるといいきった私たちは、ほんとうになにも失わないのだろうか。

ダンテの描いた神秘の薔薇の白光に照らされ、歌にみちた幸福は、人類がかつて想像しえた最高の歓喜の表現であった。
すべてがキリスト教に括られていたようなイタリア中世で、「神曲」は、すでに言葉の世界が、別の山として一人歩きを始めたことを物語っている。

|

« 北京の人にありがとう&今日みた街の光景に驚く | Main | 絶好のポイントで見ていたスーパームーン!@夕暮れのドライブで見た巨大月は一生忘れないだろう »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference トリエステの坂道 須賀敦子@イタリア名画のような絶品の小説のような:

« 北京の人にありがとう&今日みた街の光景に驚く | Main | 絶好のポイントで見ていたスーパームーン!@夕暮れのドライブで見た巨大月は一生忘れないだろう »