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February 2006

February 26, 2006

オーデュボンの祈り     伊坂幸太郎

奇妙な設定の中でとてもピュアな「祈り」への思いが綴られています。
これほどナイーブなテーマを訴えようとすると、これ位シュル・レアリステックな枠が必要なのかもしれません。

「オーデュポンの祈り」とは、果たしてなんなのか?
それは悲惨があふれている世界へのメッセージになっています。

舞台となるのは、ナニカ「大切な物が欠けている」外界と隔絶された孤島。
そこにいるのは、未来を予言する案山子に、嘘しか言わない画家、大地の鼓動を聞く少女、詩集を愛する美しき殺人者、熊を思わせる愚直な男、です。

小説を貫く価値観が「現実」といより「魂」のレベルなので、読んでいると不思議な世界に戸惑いながらも高邁な視点を与えられ、それが現実世界の本質を見通す力になるのは、まさに幻想を超えた超現実主義の本質ですが、立派に成功しています。
島の描写が、どことなくルネ・マグリット風の感触なのですが、それも魅力でした。

日常の忙しさと重さに疲れてつい忘れがちな「大切なことを思いだせ」と訴える作者の狙いは成功しているのではないでしょうか。
こういうえもいわれぬ感慨を与えられるのがフィクション(小説)の力なんですね。

変化球ですが読んどく作品だと思いました。

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February 25, 2006

ランダムウォーク&行動ファイナンスの理論のすべて:9

損切りができない~最も危険で陥りやすい罠
損切りができずにずるずると損失を拡大し、ついには決定的なダメージを受けてしまうことは、投資家を待ち受ける最大の罠です。

背景となる心理過程は「認知的不協和」という概念です。
人間の心の中に矛盾した認識が存在する状態をさします。
矛盾した認識は人に苦痛を与えるので、そこから逃れるために無意識のうちに矛盾を解消しようとする、というのがこの理論です。

例えば、「買い」で入った相場が「下げた」とします。
この時、「相場が上がると思う」という認識と「現実に相場が下がっている」という認識が矛盾を起こします。
この矛盾を解消するには、「上がると思う」という認識を棄てるか、「下がっている」という認識を棄ててどちらかに統一することですが、現実に「買い」の行動を起こしてしまった為、「上がると思う」という認識を棄てる為には損を現実化しなければなりません。
ところが、プロスペクト理論から損失領域において人は損失を確定するよりもリスクをとり続けることを選びがちです。
現実にはわずかでも相場が反転する可能性に期待してしまうのです。
その為、「下がっている」という認識の方を捨てることになります。

それでも現実に相場が下がっているという事実自体を消すことができないので、下げは一時的だろう、という「新たな解釈」を持ったり、長期的にみれば上がるだろう、という「時間軸の事後的な修正」が図られます。

投資が見るのとやるのと大違いなのは、
「投資行動をとることで、心理構造や思考回路を変えられてしまうことにあります」


~情熱的自己正当化~
認知的不協和にある投資家は、マーケットに飛び交う情報の内、自分の認識を否定する情報を無視あるいは軽視し、有利な情報は、不正確であっても飛びつきます。

やがて傍目には無謀な憶測でもそれが自己正当化されるものなら信じ、不利な情報には極端な反発を示すようになります。
この極端な例がカルト信仰だと考えられています。普通に考えれば荒唐無稽なものでも、状況しだいでは囚われるのです。
日本の銀行が長く不良債権で苦しんだのも、この情熱的自己正当化の典型例といえます。
「これは大したことではない」「政府が悪い」「デフレなんだからしょうがない」など責任を投げ出したのはまさにそれです。

この罠には誰もが嵌まる可能性があり、本人は自分がどの段階にいるか分かりません。

冷静に現実と向き合い、見込みが外れたと思ったら、その取引については諦める。
ではその程度はどの位が適当なのでしょう?
以下次回で。

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February 23, 2006

小泉vs前原はPRIDEでのシウバvs金子並

昨日は休日だったが、午前中は確定申告の資料整理。
それから夕方の4時半に人と会う予定があったので、3時にクルマに乗った。
さっそくTVチューナーで国会中継の党首討論を聞く。
午前中は資料整理で終わり、これからも遊びに行くわけではないので、こんな楽しみしか残っていない。
万に一つでも爆弾発言が出れば国道を長々と走る退屈なドライブのイイ暇つぶしと思ったのだが、話題がライブドア・メールの話ではない。

前の岡田代表がダメ過ぎたので若い前原さんには期待もあった。
どことなくオタクな感じにも親しみを覚えていた。
ところがまったくダメだった。
小泉とは役者が違いすぎる。
PRIDEでいうと全盛期のシウバに金子賢が挑むという感じ。
前原のパンチにまったく威力がないのでシウバ、小泉はディフェンスもせず攻撃すら手加減している。
相手に怪我をさせるのを恐れているようにすら見える。勝負以前のレベルである。

永田議員もどうしたのでしょう。
爆弾破裂させといて、形勢が悪いと後はホテルに引き篭もりっていうのはカッコ悪過ぎる。
指導するべき民主党の態度も煮え切らない。
野党にこれだけ力がないのは、日本にとって憂慮すべき事態ではないか?
競争相手が弱すぎるとサボりたくなるのは世の常だし、チェック機構も働かない。

これが投機なら間違った、と思った瞬間損切りである。
損はもうしょうがないのだ。
拡大する前にポジションを閉じる。
それが出来ていない。
間違ったら潔く謝って、迅速に出直す。
永田は議員辞職させる。前原執行部は退任。
応急でもなんでも切るモノ切って他の顔を立てて追求のやりなおし。
窮地でのスピード感をせめて国民にアピールする。

でもさらに大事だったのは「相場は踏み出し大切なり、踏み出し悪しき時は決して手違いになるなり。急ぐべからず。急ぐ踏み出しは悪しき踏み出しと同じ@本間宗久」
これである。
たしかにあのメールは読んだ瞬間惹かれるのも分かるが、少し興奮が冷めれば、ガセとは思わぬまでも予算委員会で爆弾にするにはリスク大という位は感じて欲しかった。
「掛けた金額」も大きすぎたんだよ。

民主党は判断を間違え、リスクを取りすぎ、さらに損切りでもたついている。
別の人も出てこない。相変わらす小沢だ管だと言っている。
ホントに人材がいないのには改めて驚いた。
これじゃ政権なんて執れるわけない。
自民独裁政治になってしまいますよ。
先進国で1党独裁の国ってあったかなぁ。

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February 22, 2006

竹取物語

トリノから届く冴えない報告の連続にガッカリしている日本の皆様を元気つける意味もこめてちょっと時代を1100年ほど遡りましょう(笑

この時代、日本から世界文学史上に輝く1編の物語が現れました。
いわゆる、かぐや姫ストーリー、「竹取物語」です。

原文「かかる程に、宵のうち過ぎて、子の時ばかりに、家のあたり、昼の明るさにも過ぎて、光たり。
望月の明るさを、十合はせたるばかりにて、・・・
大空より、人、雲に乗りて降り来て、地より五尺ばかり上がりたる程に、立ち連ねたり。」

訳「こうしているうちに、日暮れから時間が過ぎて夜中の十二時ごろに、家のあたりが、昼間の明るさよりもっと明るく、光り輝いている。それは満月を十合わせたほどの明るさで・・・
大空から天人が、雲に乗って降りてきて、地面から1m50cmぐらいの高さに浮かんで、立ち並んでいる。」

西暦900年の作にしてはなかなかのSF作品です。

でもこの物語は単にSFの先駆というより芸術の本質を語る強力な骨格を持っています。

いわく、
1)美しい至上の存在は天から来るモノであり、それは地上で光り輝く。
2)その至上の美を求め、多くの人が難題に挑戦するが、決して果たされない。
3)その美はやがて天上へと帰り失われる。
4)置いていかれた希望(不死の薬)は、意味を失うが大きな象徴を残す。
不死の薬は、山に投棄され焼かれます、が、それからその山は、不死の山→富士山となります。

どうでしょう。
これほど完璧なメタファーを、我々は仮名文字まじりの文学として9世紀初頭に表現しました。
たいしたものだと思いますよ。

そしてそう、以上の骨格は、オリンピックで活躍する超人達の物語でもありますね。
1)今に輝く才能は、努力の成果であると同時に持って生まれた天からの授かりモノであり。
2)それでも完璧な記録、美は決して達成されず。
3)人であれば必ず衰え、輝きを失う時がくる。
4)でも彼(彼女)の活躍は長く語り伝えられ象徴となります


最後に歌を一品

今はとて
天の羽衣きるおりぞ
君をあわれと思ひいでける

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素数に憑かれた人たち~リーマン予想への挑戦~ :9

複素数の専門用語の復習
「絶対値:モジュラス」原点からの直線の距離のこと。記号で表すと|z|。
読み方は「モドズィー」です。a+biの絶対値は√a^2+b^2です。

「偏角:アンプリチュード」複素数が正の実数軸となす角度をラジアンで表したものです。
記号で表すとAm(z)。正の実数の偏角は0、負の実数の偏角はπです。
正の虚数の偏角はπ/2、負の虚数の偏角は-π/2です。

「共役」複素数の実数軸に対する鏡像のことです。
a+biの共役な複素数はa-biです。記号では ̄zで「ジィーバー」と読みます。
複素数にその共役な複素数を掛けると実数になります。
(a+bi)(a-bi)=a^2+b^2
です。

実数は数直線上の一次元で表せましたが、複素数は横軸に実数軸を、縦軸に虚数軸をとる二次元の世界になるのが大きな特徴です。

このことからリーマン予想「ゼータ関数の自明でない零点はすべて1/2である」を図示すれば、実数軸0.5(1/2だから)の上にラインが引かれることになります。
これをクリティカルラインとよびましょう。

このことから零点は共役複素数として現れることになります。
a+biが零点ならa-biも零点です。
zが零点ならその共役複素数ズィーバーも零点ということです。


13章:複素関数を見る

指数関数では引数を足し算で進めると、関数の値は掛け算で進みます。

例、2^1=2、引数の1を2にすると、2^2=4です。
自乗される数が1増えたら計算結果は掛け算になりました。

ここで最近は「博士の愛した数式」でも有名なオイラー式、
e^πi=-1
を考えましょう。eの複素数乗は級数を使って求めます。
これを詳しく納得できるまで書くと1冊の本になる(オイラーの贈り物)ので、ともかくこの級数は-1に収束すると覚えてください(笑
ちなみに最初の20項を足すと-0.99999999999243491-0.000000000000528919iです。

単に素数の分布を見たいだけだったのにエライことになってきました(笑
でもリーマン予想のいう「自明でない零点の場所は、すべて複素数」なのです。
素数という自然数の分布が何故複素平面上での位置で表されるのか、なんとか理解したいと思います。


ps
ヒルベルトの功績、「ゴルダンの問題」とは、一種の存在証明のことです。
例「このクラスに次の命題があてはまる学生が一人いる。その学生より髪の毛の多い学生はほかにはいない、という学生である。でもそれがどの学生であるかはわからない」

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February 20, 2006

エイリアンvs.プレデター

注目の対決です。
この手の映画はもう2つのキャラクターがどう闘ってくれるのか?ということだけです。
ギーガーの創造したエイリアンは本物の悪夢の具現化ですが、
プレデターはスタイルの上で若干洗練さで劣ります。
さてどうなることやら?

映画はそんな試合前の煽りとして、南極の氷床下にエジプト、メキシコ、カンボジアの遺跡すべての特徴をそなえた世界最古のピラミッドの発見という話しを持ってきます。
これは古代史オタのツボで、太古の遺跡を偏愛するようになると、いつかどこかの海底で、あるいは地下でそんな名前すら知られぬ文明のピラミッドが眠っているのでは・・・という幻想を抱くものです。
ただ今回は大した映像はなくアイデア倒れでした。

前座としてまずシードされたエイリアンとプレデターが人間相手に戦いますが、
グロテスクなエイリアン、残酷で破壊的なプレデターと互いの個性を見せつける余裕のファイトです。

この途中から突如、注目のメインイベント、エイリアンvsプレデターの戦いになだれ込むのですが、
これが共に人間相手ではみせないガチなファイトで潜在力をフルに発揮する好試合。

穴から這い出てくるエイリアンの頭部にはまさに死の髑髏が浮かび、襲い掛かる時の跳躍力とスピード、思いもかけぬ狡猾さまで人間相手にやる時より倍は強い感じ。
これはサッカーでブラジルが日本とやる時よりイタリアとやる時の方が強くなるのと一緒ですね。
やっぱ良い格闘は好敵手あってこそです。

対するシルバー・メタリックの外装をまとったプレデターは、半透明の状態から実体化する処がスリリングでエイリアンにも負けないスタイリッシュさです。(顔はダメだけど)
ハイテクな武器を持ちながら闘う時は、スピアにブーメランと切れ物だけで勝負して、さらに狂暴なエイリアン相手に怯むことなく闘いを挑むところなど魅力的です。
ラスト、荒れ狂うマザーエイリアンの元に跳んできてバックブロー気味に槍を突き立てるトコは最高にカッコ良かったなぁ。

人間の代表が女性ですが、今回のサラ・レイサンはそれほどオーラが無かったです。
最近のハリウッド映画の、「アクションは女性」というのは逆マンネリなのではないでしょうか?

エイリアン路線では女性が主役ですが、プレデターの方はシュワルツネッガーから筋肉男の系統なので、ヴィン・ディーゼル辺りだったら戦いも少しは説得力が増したかも。
でもこれは終盤コンビになるので、プレデターが闘士として男性性の象徴で、助け目覚めさせる相手は女性で、ということなのでしょうか?

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February 19, 2006

地味な休日

昨日は忙しくてまさに目が回るような一日でした。
サッカーの日本代表戦があっても前半は寝てしまった。

今日になっても疲れが取れない。
娘と妻は買い物にでかけたけど、私はクタビレテいて留守番。
本も読む気がしないし、映画も見るがしない。

しょうがないので珍しく自分の部屋の掃除をした。
CD&DVDの置き場が足りなくなっているのだ。
ホームセンターにラックを買いにいく。
もっとするべきことがあるのだが、疲れていてダメ。

肉体の強さは限りがあるけど、心の強さは無限だといわれる。
俺に関しては当てはまらない。
心にも限界はある。

自分に勝てというが、そうはいかないこともあるさ。

情けない自分でも良くやっているとせめて褒めてやってもイイだろう。
疲れているということは、それだけ良くやった証拠である。

自分に負けてそんな自分を認めて受け入れる。
また明日である。

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February 18, 2006

魔術的芸術:9     アンドレ・ブルトン

大いなる統合:ギュスターブ・モローとポール・ゴーガン
モローはその空漠とした美術館に「時代物の」額縁とともに、
「魔法にかけられた魔法つかい」のように幽閉されている。
ドガの「オリンピアの神々に時計の鎖をとりつけた」という論評と、「パルナッソス神話の安物市」と評された評価は不当である。

「モローは本当の呪術師である。彼は神秘の閾を押し開いたことを自負していい。
自らの時代を混乱に陥れた栄光をほしいままにできる。
彼岸と神秘主義に病んでいる芸術家たちに、甘美な死者たちへの、かつて彼が時間の鏡のなかに蘇らせた死せる女たちへの、危険な愛を教えたのだ。
古い神々の系譜と象徴と退廃に憑かれた、この痛ましい強迫観念、死に絶えた宗教において崇められていた、神々の淫蕩へのあくなき関心、この世紀末の傷つきやすい心の、甘美な病になりおおせたのだ@ジャン・ロラン」

「『ユピテルとセレメー』や『一角獣の貴婦人』に庭への闖入にいたるまで、既視感に囚われる夢遊病的世界を支配しているのは、グノーシス派の護符このかた忘れられていた魔術的な「眼」そのものである。
死の秘密を教えられた人の、いわくいいがたいまなざしをオルフェウスと交わし合う女司祭の眼を、永遠の若さを征服するアルゴー船員の眼を導かなければならなかった。
それは存在のおよそ人を近づけない深みからほとばしりでた世界である」

「私は自分の見るものも触れるものも信じない。私が信じるのは、私が見えないもの、感じるものだけである@モロー」
いいしれぬ感覚によって自分という「マティエール」に引き付けられた画家が、みずからを描き出そうとするときに「天空を見つめる大いなる半獣神」が呼びだされるのだ。

「しかし芸術の本質的な機能は、本当に眩暈を定着することなのだろうか?」
この「イデオローグ」の内面への亡命に対応するのが、ゴーガンの漂白である。

「論理的にいって、異国や滅亡した世界のさいはての地を求めることは、絶対へといたる@ジャリ」
ゴーガンの作品は、原始主義とひとくくりされがちだが、それはヒューマニズムではなくタブローの物質的諸要素そのものから出発する神話の探求である。
印象派は純粋にフォルムの探求に終始したのに対して、ゴーガンの絵画は物理学の後に来る形而上学として描きだす。
彼はポエジーのまま自らのうちに魔術師がいることに気づき、その魔術師について原始的定義ないしは近似値を与えたただひとりの画家なのだ。

人間の悲劇性の偉大なる証人であるゴッホは、心的外傷を変成し無化する疑いようの無い至上の天才というところまでは到らず、外見という壁を崩壊させたが、けっして壁の廃虚の上を飛翔はしなかった。

絵画の「古典的」な伝統の分裂は1914年ごろには頂点に達していた。
ロマン主義の系譜はその根源が見失われるほどに縺れ合い、魔術を奪還するためには1世紀半におよぶ努力の壮大な挫折によって清算されねばならないかに見えた。
キュビズムは物体を切り刻んでいたが、この物体に生命を与え返す力はなかった。

この本も後1章を残すのみ。次回で最後だと思います。

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February 17, 2006

ランダムウォーク&行動ファイナンスの理論のすべて:8

テクニカル分析の罠
過去の相場の動きをグラフ化し、その先行きを予測しようとするのがテクニカル分析と呼ばれるモノです。

テクニカル分析は以下の概念に基づいて成り立つとされてます。
1)ファンダメンタルズの変化も投資家のセンチメントの変化も需給の変化もすべて相場に織り込まれる。
よって値動きそのもがすべての情報を含んでいる。
2)価格変動には特定のパターンがあり、それは繰り返される。

以上、二つの考えはどうでしょうか?
1)については、おおむね妥当と考えられます。
2)については、相場がカオスであればフラクタル性を持つことになりやはり妥当である、思われます。
フラクタル性とはある現象を大きなスケールで眺めても、一部を取り出して小さなスケールで眺めても同じように見えることを言います。
カオス的性質をもつものはフラクタル性を持ちます。
確かに月単位の値動きと、分単位の値動きのチャートには同じようなパターンが見られ似ています。


~人の目から見るチャートパターンの罠~
テクニカル分析にはある程度の妥当性が見受けられるようですが、気をつけなければならない罠もあります。
人はランダムな動きにも、法則性を見出そうという傾向があるのです。
コンピューターで完全にランダムな動きをシュミレーションさるとせ、そこに人は法則性を見出します。
ランダムな動きは、人の目にあまりランダムに見えないのです。
それらしいパターンはランダムな動きからでも充分に生まれうる、ということに注意して下さい。
根底のアルゴリズムがランダムなら、見出したと思った法則性から収益を生む予測は出来ません。


~原因と結果のヒューリスティック~
知られたチャートパターンは統計的に検証するとそれほど的中率は高くありません。
それでも信じられるのは、原因と結果のヒューリスティック(早合点)の一種で、妥当性の誤認が起るからです。
トレンドが反転する時、トレンド継続派の投資家と反転派の投資家が入り交じり乱高下してもみ合いながら反転するのでヘッド&ショルダーやラウンド・ボトムなどのパターンが出安くなりますが、
それは「反転した時は、現れやすい」ということで
「現れたから反転する」に違いない、ということではない訳です。

「トレンドが反転する時は、チャート・ポイントが破られる」ものですが、
これは「チャート・ポイントが破られるとトレンドは反転する」ということを保証するものではないのです。
これをゴッチャにしてしまうのが、原因と結果のヒューリスティックです。


~テクニカル分析でのまとめ~
相場予測が相場の現状を正しく理解することから始まるとすれば、
その流れを理解するのにテクニカル分析ほど優れたツールはありません。

気をつけなければならないのは、「何か絶対に正しい分析の仕方がある」という考えに陥り、
過去のパターンは、必ずそのまま再現されると信じ込むことです。
テクニカル分析により導かれた結論は、神の声でも普遍の真理でもなく、あくまで分析者自身の声であることを認識した上でなら、過去のチャートを徹底的に分析することは非常に有益なものとなるでしょう。


次回はこの本のp147-「損切りができない~最も危険な罠」 です。

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February 16, 2006

体温のボラティリティ

この間、インフルエンザに罹り、発熱時には体温の変動が大きくなるのに気づいた。
ダルさを感じて熱を計った時が7、5°。それが7、1°に下がったと思ったら一気に 8、5°に上がり、
タミフルを飲んで 7、9°に落ち着いたと思ったら 8、6°に反転。
やっと少し楽になったと思ったら7、6°で、さらに 6、9°と平熱になり 6、4°と落ち着いたと思ったら 今度は5、4°まで下げた。
これは平熱からかけ離れた高温が続いて体の恒常性が一時的に崩れたものと思われる。
普段は6,7°位でほとんど動きがないのと対照的だ。

株価を始め金融市場でも一般に底値圏では値動きが小さく、高値圏では値幅の変動(ボラティリティ)が大きくなる、と云われている。
相場が加熱する時、思惑の激突は激しくなり、カオス的変動は増幅され、高値から値崩れして暴落する過程では、仮需の投げがオーバー・シュートを生み下げ過ぎということになる。
肉体から金融市場にいたるまでカオス的現象が共通するのは興味深い。


ではもし「体温相場」があったらどんな運用が有効で、注意すべきリスクはどんなものか?
9°以上で売れば一時的に踏まされても最後は必ず儲かるだろか?
病気が治れば平熱に戻るし、熱病で死んでしまえばやはり体温が下がるので、そこで買い戻せば良い(笑
なんてことを考えたら焼死ということもある。
この時、42°売りの指し値などを出していたらロスカットも出来ずに飛ばされる。

逆に平熱の時は必ず買いで良いか?
どんな人でもいつかは発熱疾患に罹るので体温は上がるだろう。
さらに言えば食事をすれば体温は上がるからそこで売れるし、スポーツを定期的に行なう人なら運動中はかなり高体温になる。
サウナ好きの人も上がるだろうし、入浴でも上がる。
チャートからそんな生活のサイクルを見つけ出し平熱は買いだ。
食事、入浴、運動で上がった処で売り決済。
そこで新規に売りを仕掛ければ、就寝時に下がるから買い戻し。

ただ極まれに、そのまま老衰死、凍死、事故死などに合い、体温の上昇を挟まずそのまま死に至ることもある。
その場合は損失の値幅が極めて大きくなるから塩漬けは禁物である。
ロス・カットポイントはどこにおこう?
35°以下でイイのではないだろうか?

事故、自殺、殺人などで一瞬にして命を絶たれた場合、体温が急低下して買い持ちの手仕舞いの板がなくなることが懸念されるが大丈夫。
死亡後の体温の低下は1時間に1°だったと思う。
でも極寒の海に落ちて死ぬ時はもっと急速に下がるだろう。
ただそういう例は極少ないと思われるので、後は建玉を抑えてリスクをコントロールするしかない。

とここまで書いて、どこの体温か?
ということが最大のポイントだとも思った。
死亡後の体温低下速度はたしか直腸温ではなかったか?
脇下ではもっと早く、とくに凍死のように寒い処で死んで血流が止まれば急速に下がるだろう。
さらに舌下の体温相場はハイリスクだ。
アイスクリームやかき氷を食べれば一気に下がるし、熱いスープを飲めば急激に上がるだろう。
一般に42°売り、35°買いのボックス相場と思うと一瞬にしてヤラレル。
なんてね。

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February 15, 2006

物理学者、ウォール街を往く。 E・ダーマン

コロンビア大学で理論物理学の博士号を取り、ベル研究所からゴールドマン・サックス証券で計量戦略グループを率いた著者の自伝です。

コロンビア、ベル研、ゴールドマンと続くと、生まれながらに才能に恵まれ、巨額の報酬に華麗な転身をしたスーパー・エリートの一代記のようにみえますが、
書いてあるその内容は、いく先々で思うにまかせぬ勉強、仕事に情けない思いをしつつも、そんな現実と折り合い圧し合いしながら乗り越えようともがき、反面、憧れの対象にはいつも遠巻きに見とれる著者の姿です。

文章がとても自然で豊かです。
究極の還元主義者である素粒子物理学者を目指しながら、ウィリアム・ブレイクやホッパーの絵画、ナボコフやカーペンターズを愛し、夏には一人散歩をする終始内気で謙虚な人柄が伝わってきます。

私事ですが、私は思い切り現実的な仕事をしている反動なのか、学究生活に仄かな憧憬を抱いているのですが、まぁコロンビア大での研究者の生活は大変ですね。
研究室での自殺や教官を撃ったという伝説、孤独と絶え間無い成果へのプレッシャー。

同級生はみな極めつきの神童ぞろいで競争は激しく、著者もまわりの天才達に圧倒されて自分の限界に気づくのですが、それでも1流の物理学者になりたいという夢を棄てきれず、論文の指導教官(これを見つけるのが死ぬほど大変そう)になってもらいたい憧れのファインバーグに、「挨拶と微笑み作戦」を試みたところ、そんな自分に耐え切れなくなって、教授と会いそうになると手近な階段に駆け上がり逃げ出すところなど、なんとも笑っていいのか悲惨に驚くべきなのか、まぁ世に甘い世界はありません。

まだ最初の70ページしか読んでいないのですが、当時の量子力学の成果が上げられる瞬間を身近に体験してその内情を淡々と語る処などは興味深いです。
でも「ブライアン・グリーン」という名前に瞬間反応した俺はやっぱりオタですね。


印象的な文章を例によって二つほど。(改編してます)
ニュートンの重力と運動の3法則、微分学は惑星の運動を、マックスェルの微分方程式は電磁気力を説明する。
これらの方程式は知力の勝利であり、冷静な思考と深い洞察が奇跡的に合流した世界から抽出されたものである。
ニュートンやマックスェルの成功は、純粋な思索と美しい数学が宇宙で最も難解な法則を発見する力を持っていることを証明した。
物理学には宗教的な力が存在する。
惑星の軌道や電子の運動が知られた原理に従って動くという、精神が宇宙の行為を予言できることを不思議に思わずにいることは難しい。
真の啓蒙なくして神に近づいたのは芸術だけである。
物理学者たちは、宇宙を想像と記号だけで理解しようと試みる背後にある神秘と力に虜になっていた。
彼らは金よりも知恵と魔法に関心を持っている分野を愛する者であった。

「新発見をするとは」
すべてのことは教わってしまえば単純に見える。
しかし五感で認識できる世界に存在するカオスの中を一人くぐり抜けて初めて、
わかってしまえばきわめて明確に見える秩序を構築したり認識することがいかに困難であるかがわかるのだ。

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February 14, 2006

トリノ・スノーボード、ハーフパイプ

私は泳ぎも出来ないのですが、スキー、スケートも出来ません!
だからスノーボードなんてバカのやるもんだと決め付けていたのですが、見てみるとイヤー、カッコイイですね。
ジャンプの高さがハンパじゃないのね。
ドロップ・インするところで選手が膝を落として加速してくところからカッコイイ。
現実の世界から落ちて、跳ぶ夢を見る感じですか。


男子で優勝したショーン・ホワイトは1回目の技も異次元でしたが、2回目の高さに一瞬、神域を見ます。
やっぱ人が跳ぶっていうのは強力なメタファーだよ。
着地してから底に向かって加速して跳ねる。
加速、減速、跳躍してからの静止には詩的律動がありますね。

女子では一発目のジャンプの高いシュルスティ・バースが気に入りました。
その後に失敗したけど果敢に攻めたケリー・クラークのやけっぱち的高さも良かった。
俺はともかく高く跳ぶ選手が好きかも。
落ちる危険を乗り越えて高く跳ぶ!
これまた安直な筋書きだけどニワカのファンですから勘弁して下さい。

この競技、選手もコーチも観客もみんな脳波を調べたくなるほど異常に陽気ですが、これは脳内エンドルフィンが出るスポーツだと思うよ。
やっぱ快楽と危険は不可分ですね。

20年若かったらなぁ(笑
まぁ最初に見た時、コース全体が傾斜しているのに気づかず、跳んでいる選手を見ているうちにこれは筋力でのジャンプはあるにしても、基本的に位置エネルギーの放出だから、仮にボードと雪の摩擦係数が0としてもだんだんジャンプの高さは低くなるはずなのに、回転まで掛ける運動エネルギーはどうやって捻出していうのであろうか?
現実には摩擦係数が0ということはありえず、トルクを与えるのに体力が使われると・・・
なんてことをぐずぐず考えているヤツには無理ですね、はい。

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February 13, 2006

トリノ開会式とイタリアの文化

スポーツの祭典といっても、その国の文化力が問われるのが開会式です。
イタリアはどうでるか?
関心があったのですが、開会式の日はインフルエンザに罹ってしまい録画をす飛っばして見るのが精一杯になってしまいました。

イマジンあり、ヨーコ・オノあり、トンバの登場あり、だったようですが、肝心の文化力からはやはりルネッサンス。
ボッティチュリの「ヴィーナスの誕生」をモティーフにとった演出あたりは想定の範囲内でしたが、やはり色彩の映えはイタリアならではでしたね。

今やイタリア=フェラーリと来るわけですが、まさかそのF1マシンを出してきて、歓喜のエンジンサウンドからオリンピックの祝祭性を表現しきったのも見事でしたが、その背景となるモーター・スポーツへの認知度が高いことも羨ましいですね。
チラッと映ったルカ・モンテゼモーロは得意気でした。
日本でもこのくらいモーター・スポーツが尊敬される日が来るとイイな。
もしホンダがF1で勝ちまくっていた時、オリンピックが開かれたら・・・
まぁこんな演出はないでしょうね。


さらに圧巻は深紅の大幕が開かれて演奏されたプッチーニのアリア「まだ誰も寝てはならぬ」
ルチアーノ・パヴァロッティはもう終わったと思っていたのですが、素晴らしい声を聞かせてくれました。
願わくばイタリアらしい盛り上がりでもう1曲、「星は光ぬ」が聞きたかったです。

なんてことを書いて日本人の私はタミフルで治った体を押して仕事に戻るのです。
でも普段の1/3位だからラクだ。

ps
しかしパヴァロティもファラーリF1もスゴイけど、インフルエンザに罹っても休まず働き、アクセス数が減りつづけても記事を更新する俺も日本人的にスゴイ!でしょ(笑

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February 12, 2006

インフルエンザでした

一昨日からの発熱はインフルエンザでした。
昨日午前の仕事を終わらせあまりの気分の悪さに寝ていたのですが、熱を測ると8.5度!
これはマズイでしょう、と救急外来に。

なんか優しげな若い女医さんでした。
一応インフルエンザの検査をしましょうと、(けっこうイタイよねアレ)したところA型でした。
そういうわけであれから寝っぱなし。
一日半あった休みはツブレテ、(色々予定建てていたのにぃ)オリンピックもサッカーも見られなかった。

やっぱ人間健康が一番大切!
飯も食えないよ。
みんなも気をつけてね。
タミフルのんでまた寝ます。

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February 11, 2006

風邪でも仕事

昨日の夜、だるいので熱を計ったら7,5度。
風邪薬を飲んで寝たけどまだ7,5度。
世間は祭日でも俺は仕事。

風邪をひいたら休める仕事に替わりたい。


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February 10, 2006

輝き再び    R・マドリッドvsエスパニョール

ギャラクティカと云われながらシケタ試合を続けファンからも厳しい目で見られていたR・マドリッド。
私もすっかり御無沙汰してました。

この試合、前半途中から偶然見始めたのですが、ジダンがまたいてから閃くようなパスを出す。
この一瞬のシーンだけで続きを観ることにしました。
1流のプレーが秘める美はまさにアートだよ。
ジダンは巨星が最後の光を放っている感じ。フェイントもドリブルも冴えて2ゴール。
ロナウドとロビーニョに出したパスには名刀を思わせる切れ味がありました。

さらにレアルは両サイドが凄いことになっている。
左にロビーニョ、右にシシーニョの加入で異常なほど高い展開力を見せる。
特に左サイドのR・カルとロビーニョのコンビは、互いのポジションを終始入れ変えて手がつけられない印象だった。
ロビーニョはコンフェデの時に比べて当たりが強くなってメンタルでも自信をつけている。
無駄な遊びが過ぎるところは若き頃のロナウジーニョを思い起こさせる。

シシーニョはシャープなプレーに磨きがかかり、ロナウドをアシストしたパスと、ジダンのゴールに繋がったドリブルでは相手を軽々と抜いたファーストタッチの体の反転が素晴らしかった。
カフーより足りないのは経験だけだ。
ドイツでは交互に使われるのではないか。

それにしてもこの試合のレアルは美しかった。
中央から一瞬にしてフリーになっているベッカムにパスがわたり中央に折り返してグティ。
グティがパスをカットして奪い取るとジダンからパブロ・ガルシアを中心にロナウド、ロビーニョがクサビに入りながら鮮やかにパスを回し、相手の守備に応じて選手は交代しながら一端後方に展開。
その間にベッカムがフリー・ランニングしてエスパニョールの選手を引きつけるとシシーニョかドリブルで切り込みパスを出しジダンが決める。
パスやドリブルを警戒していると、不意に長いボールが放り込まれる。

鮮やかに繋がるパスにリズミカルなドリブル。驚かすようなロングフィードとサイドチェンジ。
まるでそれは目に見える音楽のようで、その心地良さに酔わされる。

レアル不調時から一人献身的なプレーを続けていたベッカムは、ヘアスタイルも長髪に戻してあい変わらず好調を維持。
この人、元が良いのでヘンは格好でも似合うけど、やっぱこのスタイルが一番カッコイイよ。
言動と外観は派手ですが、フィールドでは手抜きなしに良く走る勤勉な選手なのを再確認です。

この試合を見る限り、一人一人のプレーヤーが互いに煌きを交換し「銀河軍団」は輝きを取り戻しました。
それがどの程度であるかはリーガ後半ではっきりするでしょう。
しかしラウールの居場所はもうないな。

ps
それにしてもブラジルはFWどうするんだろう?

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February 09, 2006

アイ、ロボット

ロボット3原則を作り出したアシモフ作品の映画化です。
最近走りだしたホンダの2足歩行型ロボット「アシモ」はこの著者からとられています。
原作は短編集なのですが、ちりばめられたエピソードを巧くまとめてある方ではないでしょうか。

ロボット、私は好きで期待しているのです。
犬でも猫でも飼っていると感情の行き違いってありますよね(笑
その点機械はイイです。
クルマなんか地道に走ってくれていると「オマエは良くやってくれるなぁ」としみじみしてしまいます。
だから私などこの映画みたいなロボットが出てきたら結構ヤバイ感情を抱いてしまうかもしれません。
そんなロボットをこの映画、けっこう怖く描くところにも成功しています。
暴れ出すシーンなどはありがちなのですが、その前に、えっ、ここにもいるのという辺りが怖いですね。

映画の中に「まるでフランケンシュタインの怪物」みたいだ、というセリフがありますが、
この「人が作り出したモノの暴走」テーマは実に幅広く描かれています。
最近では「ジュラシック・パーク」の遺伝子操作で生まれた恐竜から、変形バージョンでは「2001年宇宙の旅」の狂えるコンピューター、ハル9000。ターミネータ・シリーズはターミネータ自身が「フランケンシュタインの怪物」であり、究極の敵であるスカイ・ネットもそうですね。
マイクル・クライトンは「プレイ」でナノテク・マシンの暴走を描いてます。
要するに バイオであれコンピューターであれナノテクであれ、
ともかく技術には常に暴走の恐怖が潜在する訳です。

また世界の神話で人は神によって創造されたとされますが、
最近の環境破壊や神に挑むような科学の野放図な発展から、
神にとって我々人類自身が創造者のくびきを逃れた「フランケンシュタインの怪物」なのではないか?
という鏡像的な不安。
人類は自分自身をも怖れ、いつか「神」と対決するのではないか、という根源的な恐怖の存在です。

面白かったセリフではコンピューターの「私の論理は完璧です」というのがありました。
でもいかなる論理でもそれが体系化されたとたんその論理系の内部に証明も反証も不可能な矛盾を孕むことはクルト・ゲーデルが証明しました。
「完璧な論理」というもの自体ありえないのですね。

「どうしていいのかわかりません」という問いには
「自分で決めるしかない。それが自由というものさ」という答えもあります。
救いに悩む丘の上の「預言者」に群れ集うシーンは、原始宗教の始まりのようでもありました。

ps
映画に出てくる「アウディ」はどことなく時期スカイラインGT-Rに似ていました。
鍛え抜いたウィル・スミスはすっかり大物俳優の貫禄ですね。
コアなSFファンには食いたりないと思いますが、映画としてはこの程度だと思います。

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February 08, 2006

ゴマジョー、受験で大連敗をきっす

ゴマジョー、12才の春の戦は負け続けという結果になりました。
連敗につぐ連敗で落ち続け、すべての試験を終了しました。

しょうがないですね。
他の受験者と公平な条件で勝負をして及ばなかった。
それだけのことです。
受験という範疇では負け組ですが、まぁ世間のすべてが勝ち組みになれる道理もなく、負け組みだからと拗ねても仕方が無い。
謙虚に結果を受け止めて今後に生かしていきましょう。

父親の目からみてあなたは良く闘ったと思います。
12才であれだけ出来れば良しとしてあげたいですね。
結果はついてきませんでしたが、世間に出ていく、というのはそういうことです。

自分は努力したつもりでも希望は敵わない。
これを徐々に知っていくのが大人になるということです。
自慢ではありませんが、あなたの父は実らぬ努力という方面では大ベテランです。
この時期に真剣に勉強をしたこと自体、とても良い経験になるのです。
気持ちに1本芯が入る。
そして合格という具体的な成果はなくとも、やった勉強は身についているのです。

これからもきっとたくさん悔しい思いはするでしょうが、生きていくとはそういうモノです。

Show must go on.
人生の舞台に立っている限りショーは続きます。
6年後の大学受験ではリベンジしましょう。

また失敗したらって?
そしたら就職でリベンジを狙い、それもまた失敗したら結婚でリベンジを狙い、それもまた失敗してもその間の努力と楽しみと挑戦の連続が人生なんですよ。
父もまた苦闘中です。
落ちたことが告げられても、少し涙くむとすぐに復活するあなたはキュートでした。
これからもタフであってください。
たとえこのまま一生負け組みでも父の愛は変わりません(笑

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February 07, 2006

夜市 恒川光太郎

第12回日本ホラー小説大賞受賞作です。
このコンテストが出来たのが1994年。
大手書店らしいフットワークの悪さで、モダン・ホラーのブームも少し陰りが見えた頃でした。
ただ世間的にはホラーはブームであっても私にとっては一番好きな分野なので、遅れ気味の登場でも嬉しかったのを憶えています。
第1回はすでに「死国」でファンになっていた坂東真砂子さんが佳作に入り、芹澤準さんの「郵便屋」が妙に気に入りました。
ところがその後は、大ベストセラーになった「パラサイト・イヴ」はまったく好みでなく、岩井志麻子もダメで、唯一瀬川ことびの「お葬式」は気にいったものの、選者に林真理子が出てきたせいもあり、ちょっと距離を置いていたのでした。

そんな中、この本は書店で見かけて直感が囁いたのです。
「夜市」・・・題名がイイですよね。
二編の作品が納められていて受賞作になった「夜市」は、異形のモノが集う異界の市場で、昔、弟を売り、野球の才能を買ってしまった少年とGFの話し。
文章は決して唸るような名文続きではないのですがほど良い感じ。この手の小説がみんな漱石の「夢十夜」みたいでも見事過ぎてクタビレル。気楽に楽しむには手頃ということが肝心なんです。
娯楽映画をルキノ・ヴィスコンティに撮られても困りますからね。
気楽に読めて、十分にその世界にも入っていけました。
構成も見事で、後半いわゆる幻想物語の定型を裏切る展開が用意されており大変楽しめました。


もう一つが書き下ろしの「風の古道」。
実際は受賞作よりコッチの方が長く、単行本で新人の書き下ろしを買わされたのかと気づいた時は失敗した、と思ったのですがコッチも面白い。
この世の狭間(「トワイライト・ゾーン」や「世にも奇妙な世界」的な)にある「古道」に迷い込んだ少年の話しなのですが、この感覚は私のツボを突いてます。

「どこかにすべての家が背を向けて立っている、決して踏み込んではいけない道がある」

以前、ドライブ散歩に凝っていたことがあるのです。
適当にドライブしては良さ気な処でクルマを停めてその周辺を散策するのですが、気持ちのどこかでこんな幻想的な道に入ってみたいという思いがありました。
実際に入ってしまったら大変なんですが、退屈な日常からの逃避願望です。

鬱々とした時間を、一時忘れさせてくれる1冊でした。
郷愁と幻想と恐怖の世界で、日本流に味付けられたブラッドベリ風かな。
恒川光太郎さんには今後注目します。
少なくても次作は見ずテンで買いますね。
早く読みたいです。
その位気に入りました。

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February 06, 2006

パッキャオ、モラレスに勝つ!

この試合、始まる前にゲスト達が結果の予想している。
そこで前日、自分もお金を賭けるつもりでやってみた。

自分の金ならどちらに賭けるか?
今やフィリピンの輝く太陽パッキャオと、落日の兆しを見せはじめたモラレス。
しかし相手はダーク&テリブルのあのモラレスである。
パッキャオは強いが1流のチャンピオンに勝ちきれるだろうか?
前回は追いつめたが、真の強豪は勝ちきるまでの壁が高いのだ。
それでも勝つかもしれない、と思った。
勢いを買おう。

では判定か?KOか?
KOという図柄がアタマに浮かんだ。
では何ラウンド?
2-3R?
あるかもしれない。でも少し早いか。
なら5-6R?
これだろうと思った。
しかし5-6RでパッキャオにモラレスがKOされるシーンが思いうかばない。
一見、繊細にすら見えるメキシカンは、その風貌から想像もつかないほどタフなのだ。
10R以上なら試合はモラレスのモノだろう、と思った。
ならお金はモラレスに賭ける?
いや、やはり賭けるならパッキャオ。
だってその方が面白い。
こうして予想をしていたのに・・・

試合は打ってでるパッキャオに、モラレスはあしらわずに全開で反撃する作戦。
その為、真正面からの打ち合いになり実に面白い。
2R、パッキャオの鋭いショート・パンチが連打で入る。
後退するモラレスを追うようにロングが伸びる。
しかしそこからはモラレスが反撃する。
やはり強い。モラレスはパッキャオの突進を正面から受け止め反撃する。
パッキャオのプレッシャーに押されてモラレスがよろけるが、それは偶々に思える。

パッキャオの強さを信じきれないし、モラレスは強いという固定観念を捨て切れない。
そんな思惑を裏付けるように、4-5Rとモラレスがガッチリと受け止め始める。
その流れが変わったのが6R。
パッキャオは早い出入りはそのままに、サイドからアッパーを打ちボディを攻め始める。
リーチが10cmも長いメキシカン相手にボディ!?
しかしその攻撃が効いてくる。
パッキャオはフットワークが流れる水のようで、連打が速い。
モラレスは再度よろけゴングに助けられる。

そこからはほぼパッキャオが一方的に攻める。
モラレスの反撃は先細りである。
これが逆の展開ならとっくにモラレス楽勝と思えるのに、リカルド・ロペス・スタイルをするとまたモラレスが負ける気がしなくなる。
どこかで長い腕を鎌のよう曲げたフック、アッパーの1発逆転があるような気がしてならない。

10R、ついにその固定観念は崩れる。
打ちのめされたモラレスは、なんとかカウント9で立ち上がるものの、パッキャオのラッシュに2度目のダウンはKOになった。

一昨日、人間の予測の線形性を記事にしておきながら、しかも賭けるならパッキャオKOと予想もしていながら、そのフィニッシュを直前までイメージできない。
この試合を見て改めて人は固定観念を打ち破るのが難しいのを実感する。

こうして世界は変わる訳だ。
一端、変わってしまうと、まるでそれが当然の結果であったように思えることも不思議である。

そしてパッキャオ、次はバレラだ。
まさにビック・ファイト。

ps
ゲストで来ていたコロンビア人ボクサーのリナレスさん。
不自由な日本語なのに、実に適確なコメント多発でビックリしました。
とてもアタマの良い選手です。

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February 05, 2006

欧州メディアとムハマンド

欧州メディアとイスラム教徒の間で対立が深まっているようです。
問題の根源はムハマンドの顔を描くかどうかである。

イスラム教では預言者ムハマンドの顔は描いてはならない。
これは宗教的な約束事である。

何故イスラム教では預言者の顔を描いてはいけないのか?
理由は詳らかではないが、イスラム教の勃興期、メッカを握っていたカーバ神殿が、「偶像の館」であっとことのアンチテーゼであり古来の宗教への反逆の根底であったのかもしれない。

描かないということ(=限定されないこと)は、「無限」のメタファーだ。
カントールが集合論で明らかにしたように、無限は神と人間を分かつ最も重要な属性である。
限定されたイメージ(=有限)は人に。
限定されざるイメージ(=無限)は神の領域。
現代論理学では無限の概念は、独立事象(理とは別の概念)とされている。
いわば一緒には扱えない領域なのだ。

欧州メディアの「表現の自由」というのは近代理性(=信じるモノ)の賜物だ。
欧州にとってそれはとても重要なことで、それが制限されたが故に大きな悲劇を経験している。
いわはこちらは近代民主主義「教」の教義である。

ル・モンドなどに反発が広がったのは、「表現の自由(自らの教義)」へイスラム教徒が暴力をもって答えたということがある。
確かにその問題で「理」は欧州側にある。
気に入らないものへの力の行使では、イスラムが非難するアメリカと質は同じということになる。
許容されるべきではない。

しかし「理」を超えた「宗教」に自らの「表現の自由」という「教義」を押し付けることは、西欧の傲慢でもある。

「それは唯一の比類なき統一体であり人間の頭で理解出来るものではなく、それこそが純粋現実態であり、
多くの人が神と呼ぶものです。
神の絶対性は人の心では捉えられず、出来ることは実無限(=神)を理解しよとする試みのみ@カントール」
欧州メディアには、自らの偉大な先人の言葉を思い起こして欲しい。
「理」で計れないことを「理」の地平へ引きずり降ろすことは大きな間違いである。

「神は死んだ@ニーチェ」西欧社会と、未だに神と生きる社会イスラムの溝は、かくのごとく深い。

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February 04, 2006

ランダムウォーク&行動ファイナンスの理論のすべて:7

ファンダメンタル分析の罠の続き:この本のp125-からです
基本にのっとったファンダメンタル分析で分かるのは現状の追認でしかなく、将来を予測する投資行動とは齟齬が生じる危険があることが分かりました。
どうやらさらに一歩踏み込んだ将来予測法が必要なようです。

将来予測は事実分析から自然に導かれるものではなく、まったく性質の異なる作業となります。
同時に人間の能力は、事実分析を超えて将来を予測することには必ずしも適していない、ということを強く認識しておくべきです。

人の将来予測の一般的傾向として、現状追認的な保守性が顕著に見られます。
つまり将来予測といっても、将来の姿を現状と非常に近い形か、
過去から現在までのトレンドの延長線上でとらえがちなのです。
この性質を「予測の線形性」といいます。

エコノミストの将来予測は現状からの乖離が小さくなりがちであり、
現実はそうした予測よりはるかに大きくダイナミックに変化することがほとんどです。

ではどのようにこのエコノミストの罠から逃れるかというと、GDP統計など包括的であっても古い統計には囚われず、ブレが大きく解釈が難しくても受注動向やセンチメント調査などの先行指標の重視するのも一方です。

指標にわずかしか現れていない兆しから大胆な予測シナリオを描く力。
要するに投資は、限られたパーツからいかに早く新たなパラダイムをイメージできるか? が勝負となります。


コンセンサスの誤謬~マーケットコンセンサスの意味~
コンセンサスは事実性の強いモノほど容易に得られ、材料不足のものほど得ることが難しくなります。
事実分析に近いファンダメンタル分析は、このコンセンサスが得られやすいという傾向がります。
同時にコンセンサスに従う投資は精神的に楽であり、その誤謬に誘われやすくなります。

確かに時間的にみれば一つのコンセンサスは比較的長く維持され、すぐに反する動きが出てくるわけではありません。
コンセンサスが続いている限り、それに従う投資は、利益を積み上げられますし、反する行動をとれば大きな流れに逆らうことになるので、損失が膨らみます。
しかしコンセンサスに反する新しい動きが出てきた時は、相場が強く速く動く動きます。
いままでのコンセンサスに反する見解が支持を拡大していくときこそ、新しいトレンドが生まれ、今までのコンセンサスが強いほど反動は大きくなります。

こうしてコンセンサスに従った投資は、コツコツ積み上げた利益を一気に吹き飛ばしてしまう可能性があります。
強力なコンセンサスを無視し過ぎれば利益は得られず、かといって盲目的に従いすぎて、大きな変化を無視すれば積み上げた利益が吐き出される。
「コンセンサスの誤謬」は広く知られているにもかかわらず多くの投資家が陥る罠です。
投資においては頭で分かっていることと、実際にやることが違うのです。

またマーケットとは懐の深いものであり、自分は優れていると思うはあまりよい結果になりません。
「上には上がいる」という認識はとても大切なことも憶えておきましょう。

~通説のパラドックス~
多くの投資家は勉強熱心であるがゆえに一つの投資理論や必勝法を瞬くまに無効にします。
そういうマーケットで生き残るには、安易に必勝法を求めるのではなく、必ずしも明快な解答が導かれなくても、
その基本構造や原則を理解し臨機応変に対応していくしかありません。
考え抜くことを怠るな、ということですね。

次回はp132-テクニカル分析の罠について

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February 03, 2006

アレキアンダー

幾ら偉大なる人間でもすべてを侵食する時の流れの前には無力なもの。
なんて思っても2300年前に地中海から実にインダス川にいたるまでの大遠征をやってのけ、
ヘレニズム文化の生みの親となったアレキサンダー大王(前356-323)は別格ですよね。
多くの都市を残し後世へ語り継がれた絢爛たる栄光は、まさに神々のそれをも凌ぎます。

この映画の語り手はアレキサンダー大王の幼なじみで、後にエジプトの王となったプトレマイオス(アンソニー・ホプキンスが演じてます。また彼のうちたてたプトレマイオス朝がクレオパトラの物語に繋がり、彼女とともに滅びるまで200年以上続きます)
このシーンではバックに見える大きな灯台に注目です。
あれが古代の旅行家「フィロン」が「世界の七不思議」に選んだ「アレキサンドリアの大灯台」です。(この辺から古代史オタにはたまらない!)

映画の舞台は、魅惑の極みのような古代ギリシャからオリエント。
精神的なバック・ボーンはホメロスが歌ったゼウスやヘラクレス、アキレウス、プロメテウスやディオニソス、オイデプス王の悲劇やメディナの復讐話など、未だに映画や小説で重要なモティーフとして繰り返し取り上げられるギリシャ神話です。
ちなみに家庭教師はアリストテレス、ライバルは世界最強アケメネス朝ペルシャのダレイオス三世です。
うーん舞台とイイ、面子とイイ最高ですね。

マケドニアの神殿では、妖女と言われた「オリンピアス」をアンジョリーナ・ジョリーがエキゾチックにゴージャスに、後に世界を制する王の母としてふさわしい迫力で演じます。

アレキサンダー大王軍で有名な長槍隊もきちんと再現されてますね。
イッソスの戦い(ガウガメラの戦い)になると、あの有名なボンペイのモザイク画に描かれた、
ペルシャの戦車に乗ったダレイオス三世に、ブーケファルスに乗って打ち掛かるアレキサンダー大王の姿は再現されるのだろうか、とワクワクしました。

戦いが終わると、なんとかのバビロンに入場!
ラピスラズリに飾られたイシュタルの門をくぐり、両脇に有翼の牡牛像(バビロンの神獣です)のある道を通り、かつては空中庭園もあったであろう伝説の宮殿のテラスから遠くにはバベルの塔(ブリューゲル・タッチでしたね)まで見えるともう文句なし。
カッコ良すぎて最高でした。
こういう歴史的なエピソードに夢中になったので、登場人物が英語を話し、今風の自由を叫ぶのに違和感があったくらいです。
「パション」みたいにコイネー(古代ギリシャ語)にしてアメリカ版も字幕てやればよかったのに。

インドでの戦闘シーンでは象軍団も大迫力で、ともかくコリン・ファレル以外は全部良かった。
オリーバー・ストーンは何考えただろう。
変な金髪といい彼はミス・キャストでしょう。
アレキサンダー大王はレリーフや彫刻に多く記録されてますが、チンピラにしか見えないコリンよりずっと知的でスケールの大きな男に見えます。
信長にしろ秀吉にしろ映画化されるとみんなハンサムになるのに、今回だけ元より落としてどうするんでしょう。

スキタイ(鉄器を操る騎馬民族で強敵でした)へ進出のとバクトリアでの婚礼(アレキサンダーはマケドニアの兵士とペルシャ女性1万人を集団結婚させたり本気で世界民族の融合を考えていたようです)、プロメテウスの神話が被るヒマラヤの山々などのシーンも興味深かったです。

アレクサンドロスは、過酷な現実をかろうじて生き残る神話に重ね合わせました。
それが可能だった最後の時代の物語でした。

以下カッコ良かったセリフ
「幸運は勇者の味方である@アレキサンダー」
「神話とともに生きるのは、なんと孤独だ@アレキサンダー」

「若者は理想を追い、挫折する。孤独をヘラクレスに聞くがよい。
どのような英雄にも運命は残酷だ。いかに権力を誇るものにも悲劇がそっと忍び寄る。
神々は成功を嘲笑い一瞬にして栄華を打ち砕く。栄光を与え、冷淡に奪い去る。
我々は運命の奴隷なのだ@フィリッポス2世」

「人は王に生まれるのではない、剣と痛みにより王になるのだ@フィリッポス2世」

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February 02, 2006

クライモリ

「もう森には二度と行かない」
古来より森は自然の恵みを与えてくれるものであるとともに、怖いモノであるという記憶は、すっとどこかで引きずっているんでしょうね。
特にアメリカのような広大な大陸では、いまだに深い森のなかでは何があってもおかしくない。

「悪魔のいけにえ」は片田舎、「13日の金曜日」はリゾート地、と若干ロケーションに違いはありますが、
ともかく人里離れたところにとてつもなく怖いナニカがあるのがアメリカ流ホラーです。
ドキュメンタリー風に新味を出した「ブレアウィッチ・プロジェクト」も同じですね。

これもそんな定番に沿ったお話しで「クライモリ」にWrong Turn(原題です)してしまった6人の若者が異常者に追われるという展開。

この定型に載って話しを進めるからには細部の作り込みと工夫がすべてです。
出てくる役者と演出、なにより追ってくる異常者の怖さがどこまで出せるか?

この映画、序盤は悪くありません。
姿の見えないナニカが襲ってくる。
ザイルの異常なスピードでその力を見せつける。
出てくる女優さんたちも隣りのちょっと色っぽいオネイサン風で及第点。
俳優も性格の良さそうな人なんかいて好感度でした。

プロローグのショックシーンの後、主人公となる被害者達が出会うところも綺麗に撮れていて、さらに彼等が異常者と最初に本格邂逅するところも工夫があってスリル満点です。
難しいのはそこらかなんですけどね。
それからはホラーというよりアクション映画風なのが残念でした。
怖がらせるのは難しいよね。

ps
個人的な事情なんですが、最近、ちょっとストレスフルでして・・・
そういう時はこの手のホラー映画って刺激が強くてちょっと日常を忘れられるのがイイですね。

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February 01, 2006

海辺のカフカ(下):2       村上春樹

以下、覚え書きの続きです。

「『物語のなかに拳銃が出てきたらそれは発射されなくてはならない』
必然性というのは、自立した概念なのだ。
それはロジックやモラルや意味性とは別の成り立ちをしたものだ。
役割としての機能が集約されて、役割として必然でないものは、そこに存在するべきではない。
役割として必然なものは、そこに存在するべきだ@チェーホフのドラマツルギー」

「迷宮という概念を最初につくりだしたのは古代メソポタミアの人々で、複雑なカタチを賞賛し具体的には動物の腸であった。
つまり迷宮の原理は自身の内側にあり、それは君の外側の迷宮性と呼応している相互メタファーである。
君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、内にあるものは外にあるものの投影だ。
だから外の迷宮に足を踏み入れることによって、君自身の内にセットされた迷宮に踏み込むことになる。
それは多くの場合とても危険だ。
ヘンゼルとグレーテルのように森は罠を仕掛ける。
どれだけ用心して工夫しても目ざとい鳥たちが目じるしのパンくずを食べてしまう」


素敵な文章としては・・・
「その微笑みは、小さな窪みに乾き残った夏の朝の打ち水を想像させる」

「濃密な静寂だった。空気は湿気を含んで重く淀み、そこにはかすかな猜疑と陰謀の気配があった。さまざまな大きさの無数の耳がまわりの空中に浮かんで、じっと2人の気配をうかがって・・・2人は真昼の暗闇に包まれ、何も言わずにそのまま凍りついていた。」

「死者とともにひとつの部屋にいると、ほかの音が少しづつ消えていくことに気づく。まわりの現実の音が、次第に現実性を失っていく。意味のある音は、やがて沈黙だけになる。その沈黙が海底に積もる泥のように、だんだん深くなっていく」

「本当の答えというのはことばにはできないものだから。それで言葉で正しく伝えられないものはまったく説明しないのがいちばんいい、たとえ自分にたいしても」
この小説は、「世界の境目」から村上春樹はその「曰く言い難いなにか」を懸命につたえようとした一編だと思います。

最後にすべての殺し合いへのメッセージとして
「圧倒的な偏見をもって強固に抹殺するんだ」
こういう命令が世界からなくなりますように。

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