« March 2005 | Main | May 2005 »

April 2005

April 30, 2005

鉄 平成侠客伝

竹内力主演、監督宮坂武志で題名がご覧の通り。
それでもGW10連休どころか、月末月初は祭日でも自宅で書類と格闘する私は観てしまうのだ。
ところがこれが拾いモノ。

脚本の龍一朗 東龍志(2人とも名前に龍の字が・・この世界、脚本の人も気合いが入っているですね)
が洒落た工夫をしていて、それが出演者全員の快演を生んでいる。

とーきーを、駆けるヤクーザ(←原田知世の「時を駆ける少女」の歌で歌ってね)ものなの。
僕たち、また会えたね、っていうセピア色の回想シーンが素敵。
食べ物に関するエピソードが縦糸として使われているのも良くて、
音楽も良くて、撮影も良くて、脇をかためるキャラクターも良い。特に駄洒落の組長! 勉強になったぜ。
唯一類型的で魅力に欠けるのが敵役の本田博太郎ってのが皮肉だけど、
ここで敵役まで良かったらカルトな傑作になっていたかも。

竹内力って馬鹿にするのは簡単だけど、やっぱり凄いでしょ。
顔から演技まで濃過ぎるけどさ。Vシネマ1本、あの力んだ顔で支えてるんだから大した物です。

港雄一も長年の経験を生かしきった味のある力演。
ソープ嬢役の長谷綾子との純情がとても良いです。そっ歯なんだけどね。愛に飢えてる寂しい天使みたいだ。
老境であんな胸をした若い娘と恋愛するのは、男の夢だね。
2人の別れのシーンがまた良い。まるで原作がフランソワーズ・サガンみたい。
愛と孤独がテーマなんです・・本当だって、嘘だと思っているでしょう。
嘘だと思うなら観て下さい。
でも人によって感性は違うから文句は言わないでね。


ps 印象に残ったセリフ
「あんた子供の頃、退屈だったことがあったか? 俺はショボクレてる奴が嫌いなんだよ」
「ぼうず、約束だ。カッコイイ男になれよ」
「俺、カッコ良かったかい?」
感動したぜ、鉄さん!

やっぱ男はショボくれてないと駄目だ! と強く訴えてこの映画は終わります。
・・・違うよな。

ショボくれていては駄目だと訴えているんです。
すみません、鉄さん。
でも現実は厳しいんです。
でも俺、明日から頑張ります。多分。
みんなも頑張ろうよ!
いいなぁ10連休。海外だって行けるだろうし。
なんで俺だけこんなに働かなければならないのだろう。
教えてくれ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 29, 2005

「無限」に魅入られた天才数学者たち:10

クレタ人、エピメデスは言った「私は嘘をついている」
この命題が真ならば、エピメデスは嘘をついていないことになり、命題は偽となります。
この命題が偽なら、エピメデスは嘘をついていることになり、命題は真となります。
以上2つともに命題が偽であり真であることになり、これは矛盾です。

バートランド・ラッセル:1950年ノーベル文学賞者
「プリンキピア・マセマティカ」1910-13年、数学を公理的体系から再構築した本。
そこで提起された集合論の矛盾を簡単な例で説明すると
セヴィリアの理髪師の例えがあります。それは

命題:セリヴィアの理髪師は、自分で髭をそれないセヴィリアの男全員の髭を剃る。
1)理髪師が自分で髭を剃ったら、自分で剃れる男の髭を剃ったことになる。矛盾です。
2)理髪師が剃らないなら自分で剃らなければならず、理髪師は自分で剃ることの出来ない男のはずです。
これは「グレリングのパラドックス」:1つの述語はそれ自体正しいこともあり正しくないこともある、ということです。「この文は正しくない」←これが最良の例です。

さて集合論の基本矛盾とは
自分自身を要素として含まないすべての集合からなる集合をRとしたとき、Rはそれ自身の要素だろうか?
ということです。
もし集合Rがそれ自身の要素ならRはRという集合ではなくなります。またRがそれ自身の要素でないなら、Rはすべてを含むはずだからR自身も集合の要素でなければならないでしょう。
これは公理系の、任意の性質が与えられればその性質をもつものを要素とする集合が存在する、という
第五公理、分出公理を否定するものでした。

結局このラッセルの提示したことは、
すべてを含む集合は存在しない、ということです。
どんなに大きな集合を考えても、そのべき集合を作れば必ずそれより大きな集合になるからです。
したがって最大の基数は存在せず、我々は絶対者には決して到達できない、ということになります。

この絶対者を神を同一視したカントールは
「私これまで実無限の最高類より先に出たことはありません。
実無限の最高類は絶対に存在しないことを証明したのです。
有限も超限も越えたものは(類)ではありません。
それは唯一の比類なき統一体であり人間の頭で理解出来るものではなく、
それこそがアクトゥス・プリッシムス(純粋現実態)であり、多くの人が神と呼ぶものです」
神の絶対性は人間の心には捉えられず、出来ることは実無限を理解しようと試みるのみ。
この結論を抱いてカントールは衰弱死(心不全)します。

数学の基礎を支える集合論に矛盾がみつかり大きな問題になりました。

これに挑戦する第2の主人公がクルト・ゲーデル、1906年にチェコで生まれます。
彼はボヘミアの保養地マリンエバートで数学者、論理学者になる決意を固めます。
これで17章、あと36ページです。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

April 28, 2005

失恋の歴史:春の特別編@親知らずを抜いた夜

「愛している。誰よりも君を」
「わたしもよ、はるくさん、抱いて!連れていってくれるのでしょう」
「それは出来ない。俺の任務は危険過ぎる、君には婚約者がいるじゃないか」
「勇気がないのね、見損なったわ」
涙に濡れる彼女の瞳は、夜空の最も美しい2つの星が代わりに輝いてくれと頼んだに違いない(シェークスピア)。

しかし俺は思い振り切るように置き捨てて列車に向かった。
敵はもうそこまで迫っている。あと1日2日でここは危険な町になるだろう。
ごった返す人混みをかき分け、荷物をコンパートメントに放りこんだ。
「行きたくないわ」
俺は思わず彼女を抱きしめた。「君は太陽、無垢なる僕の夢だ」
しかし鳴り響く警笛が俺に正気を蘇らせた。
彼女を残したのがすべての間違いの元だった。
有能な秘書が必要だったことなど、今となっては言い訳に過ぎない。

「行くんだ。さようなら、君の瞳に乾杯」
「絶対に行かないわよ、私はそばに居ます」
「伍長、彼女を拘束したまえ」
「はるさん!」
「東京ではKがまっている。よろしくな」
「はるくさん!」
伍長の制止を振り切り、俺の後を追おうとする彼女。
「伍長、任務を与える。君は彼女を護送したまえ」
・・・列車を降りる俺、汽笛と蒸気の中を遠ざかる列車。
・・・ポーーーーッ!シュシュシュシュ走り去る蒸気機関車・・・!
っていつの話しやねん! 伍長って誰や! 危険な任務って俺は何者や。
という疑問ありまくりの夢を昨夜というか本日未明に見ました。


時代設定:不明、たぶんカサブランカの影響大ゆえ、あの頃かな。
配役
彼女:矢田亜希子
伍長:伊吹なんとか、っていう、昔「水戸黄門の助さんか角さんのごっつい方の人」

イヤー、月曜から親知らずが痛くてさ。
昨日、抜いたのよ。激闘1時間の抜歯。
ガッツンガッツン骨削られたら熱が出てね。
抗菌剤と鎮痛剤を飲んで寝たら、こんな夢を見てしまいました。
アホらしっ!!!
夜の8時に寝たら、深夜の2時に起きてしまい、この記事の下書きを書いてまた寝ました。
笑ってもらえれば幸いです。詰まらなかったらゴメン!

| | Comments (2) | TrackBack (0)

April 27, 2005

狂気(ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン) ピンク・フロイド

優れた芸術はその本来の性質から人の心の深遠へと迫る。
そしてその内奥には我々自身が気づかないダークサイドがある。
我々は一般に自分のすべてを知っているつもりでいる。
ちょうど見慣れた月の表面のように。
しかし月は自転しており実は我々には片方の面しか見せていない。
その裏面を窺がうにはロケットに乗るか、このアルバムを聞くしかない。
夜に浮かぶ美しい月のその裏側、あなたの知らないあなたの内側・・


このアルバムはピンク・フロイドが真っ正面からその狂気、ダーク・サイドに踏み込んで成功させた傑作。

ドキン、ドキンという心臓の鼓動を思わせる音と何かを破砕するようなメカニカルな断続音、
そして正気を失ったような笑い声。
続くのは美しい旋律のハーモニー。
1枚のアルバムは完璧な導入部を持って始まる。
3曲目の「タイム」の提示部の素晴らしさ。広く深く響かせるパーカッションは広大な宇宙に匹敵する貴方の内側に青い光を放ち「虚空に響くようなスキャット」が絶壁の手前に佇む悲しみをメロディアスに歌う。
シンプルでかつ美しいメロディが基礎を支えるのがピンク・フロイドの魅力だ。

「マネー」という曲が異彩を放つ。
他が幻想的であるとき、この曲だけがブギでありロックンロールしている。
地獄の沙汰も金しだい、なのか金が絡めばピンク・フロイドですら夢に溶かすことが出来ないのか、
悪いユーモアのようだ。

バッハのフーガのように始まる「アス・アンド・ゼム」は、
普通の人々(僕とあなたが、我々と彼等が)が互いに殺しあうことについて歌った歌。
その理由を知っているのは神だけなので、聞いていると殺し合いの曲とはとても思えないほど
美しくゆったりともの憂い曲になっている。
「BRAIN DAMAGE」ではついに狂人の姿を見ることになる。
それは、今、野原に、広間に、R・ウォータスは自分のアマタの中にいると歌う。
そして狂気の中にのみこまれた自身の姿が見えると言う。
さらに次の「ECLIPSE」では、太陽(正常さ)はすでに月(異常)に侵食されていると歌われる。

この最後の曲が終わると、最初に聞こえた鼓動がまた聞こえてくる。
永遠に続くメビウスの輪のように、一端この世界に入り込んだら出口はない。

こうしてこのアルバムを聴けば月の裏側に格安でトリップできる。
あなたはそこでなにを見るのだろう。
止まらなくなってしまった笑い声は聞こえるだろうか?

ps
このアルバムはジャケット写真も素晴らしい。
プリズムに入る光が分光されて7色に分かれている。
秀逸な暗示である思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 26, 2005

シュルレアリスム

1924年アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」を書き上げます。
主要な特徴は「デペイズマン」と「オートマティズム」です。
コラージュやフロッタージュという手法は、他の美術運動へも関連が強いので今回は省きます。

オートマティズムとは自動記述のことです。
あらかじめ書く内容を何も考えず、ただ頭にうかぶことを脈絡がなくてもどんどん書いていくと、人の主観が消え去り一種神懸かりの状態になります。
画家ではジョアン・ミロが近いとされていますが、主に文学の分野での手法です。

絵画では「デペイズマン」という手法が中心になります。:置き換え:ということです。
「光の帝国」では夜の風景と昼の青空が1つの画面に共存します。
「記憶の持続」では融けたチーズのような時計が木の枝に掛かったりする手法です。
ロートレアモンが「マルドロールの歌」の中で予言した
「解剖台の上でミシンとコウモリ傘の出会い」という具合の、非日常的な驚きを伴った美術です。
一見確固たる現実の薄皮の下に息づく不安が表現されます。

サルバドール・ダリ:1904年―1989年
「記憶の持続」1931年
奇行を売り物にして話題を呼び、大枚のドルを稼ぎました。画風は偏執的な細密さと粘液性の幻想です。
建築や映画の制作も行いブニュエルとの合作した「アンダルシアの犬」は有名です。
詩人のポール・エニュアールの妻だったガラという年上の女性が(詩神)ミューズです。

ルネ・マグリット:1898-1967年、
「光の帝国」1954年
決まった時間に散歩をしてチェスを愛し、ベルギーのごく常識的な市民として生きました。
私の好きな彼の言葉があります。それは、店先の卵を買いに行って店員に
「あの卵をくれたまえ」1番前の卵を差し出す店員に
「それは駄目だ、奥のをくれ。同じだって? 違うよ、それは店先にあったから、
みんなにずっと見つめられていたじゃないか」
ダリも真の天才ですが、この人の方が常識人に秘められた狂気という点で凄みがありますね。

ps
画風からシュール・レアリスム(幻想的写実)と誤記されますが、これは間違いです。
あくまでシュル(超)レアリスム(写実)のことで、現実から逃避する安易なシュール(幻想)ではなく、
表層の現実の本質を越えた「より強度の上位の現実」の絵画ということです。
前回、シュルレアリスムは2回に分ける、と書きましたが、「無限」に・・の本を読了したら、
次回はブルトンの「魔術的芸術」を読もうと思っているので今回はこの位にしておきます。

| | Comments (2) | TrackBack (1)

April 25, 2005

春の到来

降ってくる雨も柔らかく、晴れれば桃源からと思うような風が吹いてきて、やっと私の春が来たようです。
花粉も納まってきて、飲みきったサプリはもう追加も買わず、クスリもあるだけ、後1週間ほどで止める予定。

今、1番好きな季節の春。
以前は、ただぬるく無難なだけで眠気を誘われ覇気がなく1番嫌いな季節でした。

やっぱり季節は夏!でしょう。チューブの歌う季節だし。
一夏のアバンチュールもあるかもしれないし(←笑う処です)冒険の季節ではありませか。
でも今はダメ、暑いと疲れちゃう。一夏の冒険どころじゃないし。
秋も思索にふけり読書が進む気がしていたけど、今は陽が短くなるとなんだか鬱になってくる。
男の更年期かね。
冬も男ならキリっと締まって鍛えられる。星飛雄馬だって特訓は冬山でしたじゃん、と以前は思っていた。
でも今は寒いと身体に堪える。基礎代謝が減ってるんだな。
ようするに年を取ったということだよね。

この季節、夕暮れ時が気持ちよくて、空など見上げ薄暮の中で白く輝く月には風情があるね。
春は曙、らしいけど、現代人は宵っぱりだから春は夕暮れだ。

今年もやっと始まったって感じ。
正月は寒いし、休みも終わって、その後は花粉が来るからあまり好感がモテナイ。
第一、1月からだと年末が遠すぎる。
今年もこれからだね。
イイことがあるとイイな。
でもこういう事を言うのは女なのだそうな。
男はどうする、と能動的に行動するものだってさ。
とりあえず家族が健康で、無事に過ごせますように。

それから己の欲望に忠実になろう。
お行儀ばかり良くして年とってもしょうがないもの。
なんてな。
いつも言うだけさぁ。
でも言ってみるだけでもイイだろ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 24, 2005

キューティハニー

これは今の日本の才能が結集して仕上げたジャパニーズ・クール・ムヴィーの傑作ではないでしょうか。
話自体はお決まり展開で、悪の組織と超能力を持ったヒロインが戦う話ですが、単にやっつけて終わりではなく、ラストもしんみりとした味わいを残す和風の仕上がり、さらに後日談のシメも陽気で逞しく楽しいです。

もともと原作の永井豪の天才が下地になっているわけですが、
それを生かしきった庵野秀明監督の手腕は素晴らしいですね。
摩砂雪さんの絵コンテのセンス、全体の美術を担当したと思われるビューティ・デレクターの柘植伊佐夫、スタイリングの島津由行の仕事など、こういう一見安直な娯楽作品ほど、細部の感性が問われて全体の出来を左右するのですが、それを多彩な分野で活躍している日本の豊かな才能がやり遂げた訳で、なんか安心します。

神は細部に宿る、なんて話は何もミケランジェロの彫刻にばかり当てはまるモノではないのです。

そして魅力爆発の源泉はやっぱり主演の佐藤江梨子の力。
サトエリの演技というより素のまんまのキャラだと思うのですが、
ともかく豊かな時代が育てた女の子で、屈託がなく明るく楽しくお人よしで
「すみませ~ん」なんて言いながら、遠慮しいしい戦うところがいかにも日本のヒロインでピッタリでした。
もちろんウリのバストの威力は絶大で、キワドイ衣装になると俺みたいな男はバカだからもう視線が釘付け。

相手役の市川実日子も今までは潜在的な魅惑を感じつつも、
これまでの映画の印象がどうも陰気な感じでイマイチだったのですが、
今回は凝った日本酒マニアで、空の一升瓶と枯れた鉢植えが並ぶ部屋に住むキャリア刑事の役所がバカバカしくもセンスよくピッタリで楽しいです。
こういう何気ない背景が勝負どこだったりするんです。

 
歌の倖田來未も元気一杯でイイです。気に入ちゃったよ。CD買おうかな。
最近、日本人、聞いてないし・・なにもアッシャーとツッペリンばっかり聞いていることないものね。
でもオープンで乗っている時は音が外に漏れるので、交差点に止まった時が恥ずかしいんだよな。
そこが難点だな。40男のクルマから流れてくるのが、ハニーーーフラッシュ!じゃなぁ・・

ps
ひとつ文句を言いたいのは、スタッフ、キャストのみなさんの名前の変換が難しい。
庵野、倖田來未、伊佐夫・・・どうでもいいけどさ。

| | Comments (8) | TrackBack (3)

April 23, 2005

グッバイ、レーニン!

亡命した夫への愛を失い、その代償として熱烈な社会主義者となった母親が倒れます。
しかしその昏睡から覚めた時、東独は崩壊し、ベルリンの壁は崩れ、国は西ドイツに飲み込まれてしまってしました。そこから一人息子は病身の母親の心を守ろうと必死に奮闘、架空の東ドイツの存在を母親の回りに築きます。そして・・・

監督のヴォルフガング・ベッカーは手堅い演出でストーリーを進め、主演のダニエル・ブリュールも好演します。
映像のそこはかとなく澄み切った感覚に、ドイツ映画の深い伝統を感じます。

ドイツで歴代興行収入記録を塗り替えたそうですが、話題のスターの出演もなく、派手なアクションも目もくらむ特殊効果もない、この極めて地味な作品がそれほどウケルということ自体、
東洋の島国に住んでいては解からぬ激震が、東西ドイツの統合時にはあったのだなぁ、という感慨を抱きます。
もう17年もたっているんだものね。
もっともドイツの人って(特にボクシングの試合などを見ていると)日本人とかアメリカ人とはちょっと感性の違いを感じることが多々ありますけどね。


私は最初少し意地の悪い見方もしていて、要は貧しき非効率な東ドイツへの揶揄と、成功した西側の隠しきれぬ優越が根底にないこともないだろう思っていましたが(当時そういうエピソードを多々聞いていたので)、
そんな底の浅い映画ではなく、息子の健気な、それゆえに品のあるユーモアが滲む奮闘から、
人が本気で信じ献身していた価値が喪失する重みという普遍的な衝撃を感じさせられました。

特に秀逸な場面は、前フリから用心部深く用意され、観客をあたかも巧妙な罠に落としこむかのような展開からもってくる、母親と空を飛ぶレーニン像が邂逅する場面です。
他の画面がとても地味な構成で作られるが故に、あのシーンはくっきりと際立ち、
終演後も、長く忘れがたい印象を残します。

ラスト、しだいにほころびつつある息子の奮闘に付けられる結末は、崩壊からの大変動を象徴していた1つのエピソードが巧妙な伏線として生かされ、地上を遠く離れた視点からすべての人類向かって、諍うことの愚かしさと共存の豊かさを訴える仕上がりにまとまります。

この終局場面のメッセージが、この映画を単に東西ドイツの統合というローカルなモノから、世界で感動を生んだ傑作へと飛翔させました。

| | Comments (4) | TrackBack (5)

April 22, 2005

花神 中巻:2 司馬遼太郎

野良犬を恐れ、妻にも弱い蔵六は、シーボルトの美貌の娘に学問を通して尊敬され愛されますが、
禁欲的に涙の中に別れを告げます。
そして軍事には、敵情への徹底した情報収集、民心の把握、大砲後の突撃作戦の創案、相手の心理を読み切った豪胆な行動、作戦中の精密さ、など、心理面、現実面共にけた外れの才能を発揮します。

以下、参考になった覚え書き。
桂小五郎(木戸孝允)は最高の剣客だったが極端に用心深く、ひたすら逃げる人でした。
剣を学んで悟った奥義はまず逃げる、とし、あんまに変装し、便所の汲み取り口からも逃げた。
憂鬱症があり、嫋嫋とした手紙を連日書き送ることもあり、激動の英雄としては意外な人物です。
また自分には天才がなくてもバランス感覚が良く、周囲に信頼された人だったようです。
仕事をなす男特有の執念深さがあり、蔵六が政治上の失敗をしても見捨てませんでした。
なにより蔵六を単なる蘭書読みではなく人として認めたので、
これに蔵六は感激することおびただしく、桂の為ならと必死になりました。この辺は人の性ですね。

後年、桂は蔵六を
「あの人は田能村竹田の絵のような人だ」と言っていました。
田能村竹田:侍医から世捨て人になり、旅に死んだ画家。
無欲で素朴で神韻を帯びた画風であり、無欲に仕事に献身した蔵六に似ていました。

この時代は極端な危険時期であり、西郷も同様。1人では歩かず、有名な犬も用心の為でした。
坂本竜馬は、蔵六が無残に失敗する銃の手当てを海援隊を通してすぐに実現します。
ただ蔵六のような厳密な学は一切なく、語学力も専門的な知識もありません。なんと操船も下手でした。
しかし直感力と洞察力が卓越し、組織力と仲介の天才でした。海援隊は事実上日本初の株式会社でした。

人のアタマの良さとは、実に多彩な色合いを帯びるということが分かります。

勝海舟の発言、「長州に村田がいては幕軍に勝ち目はない」
当時なんの実績もない蔵六へのこの洞察は、勝が蔵六の翻訳を読んで瞠目していたからでした。
「これは怪物ではないか」という感想を持っていました。

この時代になると制度に守られた武士より、自分でリスクを取っていた商人の肝が太い。
政治家には克明で堅牢な精神を必要とする技術は苦手という特徴があります。
長州人は怜悧すぎて、勇気に必要な愚直さに乏しい。

日本の貴族はかつがれている時は無難であり、本人が有能で能動的だと悲運である。

種子島伝来以来鉄砲は12年で生産30万、日本の主要輸出品目になった。
日本人は道具に対する貪欲さがある。それを最も恐れたのは徳川幕府。
幕府は兵器だけでなく、ノミやカンナ、駕籠にいたるまであらゆる道具の様式を凍結し、
諸道具の開発は国家に対する最大の罪悪として抑圧し体制を維持しました。

知性は彫琢を経て始めて成立する。
また人の脳裏の追憶は、事実より詩をして記憶される。

丹塗りの茶碗の美しさは理屈ではない。それと同じで人の心にも理屈抜きの美しさがある。
愛、誠意、献身、恩、それらは理屈を越えた美であり、蔵六は自分を丹塗りの椀でありたい、と思っていた。

日本人の好色趣味は肉体的牽強からくるものではなく、 春画趣味という鑑賞的好色であった。
徳川300年、生活のすべてを支配されていた日本人は、好色へ韜晦するしかなかった背景がありました。

勇者は己の勇を頼んで敵を呑む為に智がくらむ。
臆病者は小さな注意を払い敵の動きや心理を洞察し防ぎ手を必死に考える。これが優れた策を生みます。

軍事は感覚であり、ます内部を静めること。
軍事的才能は生まれを問わない。織田信長、ナポレオンはそれを知って仕立て上げました。
官僚化した老大国は愚人が力を握り才物は疎まれる。よって奇策は出来ない。
古来勝利者は兵力の集中に成功したものであり、敗将の共通理由は兵力の分散にあります。

武は本来、敵に勝つという合理であった。
それが江戸期の長い平和で教養人になった。
勝つという職能への合理を失い、敗北へ美を求めて美しい自滅を欲するように変質した。
勝利の醜より敗北の美という時代になっていた。
これが幕軍敗戦の原因になります。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 21, 2005

「無限」に魅入られた天才数学者たち:9

連続体仮説の証明に行き詰まった、カントールは引き篭もり、
大学は病休、突然シェークスピアの研究を始めます。数学ではなくシェークスピアです。
証明しようとしたのは、シェークスピア=フランシス・ベーコン説。
勿論こんな説はありませんが、カントールはあらゆる文献を漁り研究します。

同時に1900年、パリで開かれた第2回国際数学者会議でヒルベルトは、
数学上の最重要な「10の問題」のトップにカントールの連続体仮説を取り上げます。
異端視されていた研究は輝かしい重要性を持つことになりました。


選択公理
連続体仮説を証明する為には、超限数同士を順序つける必要がありました。

アレフ基数のX0、X1、X2、X3・・を順序付け、連続体の基数cが=X1であること、
最後はヘブライ語のアルファベットの最後の文字τ(タウ、ヘブライ語に変換できない)を当て、
すべての無限基数を系列τのどこかに位置することを証明することです。

まず無限基数が数直線上の実数と同じ法則に従い、任意の2つの基数が順序つけられることが大切です。
この性質を超限基数に持たせるよう考えられたのが、整列原理「すべての集合は整列させられる」です。
すでに無限は集合論の中で考えられてます。無限集合同士をどう並べるのか?
ここで登場するのがツェルメロです。

ツェルメロの証明
与えられた集合の、空集合でない部分集合のすべてに:代表点:を付けます。
代表点はその部分集合の要素から選ばれた一点です。

その一要素を選ぶのが:選択公理:です。
いかなる集合Aに対しても選択関数fがひとつ存在し、
Aの空でない部分集合Bに対してf(B)はBの要素となるように出来る。

選択関数は、各集合Bに一つの要素を選択する。
ところが、この選択公理は、要素有限の世界ならよかったのですが、
無限の要素を想定すると、無限回の選択を行うことになり、
「証明方法は有限のステップで終わらなければならない」、という数学の前提から外れてしまします。
数学は基礎となる公理の上に構築され、その先は論理規則を使いながら命題や定理が証明されますが、
その回数は有限でなければ(無限に論理を積み重ね終わりがなければ)証明になりません。

こうして連続体仮説を証明する選択公理に疑問が起り、その選択公理が証明する整列原理が怪しくなりました。
順序という性質を抜きにして数を捉える理論的方法はなく、連続体仮説は整列原理に依存します。
:連続体仮説:(必要条件)→:整列原理:(等価)=:選択公理:
こうなる訳です。
これで15章まで。あと50ページだよ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 20, 2005

05年4月、@ヤンキースタジアム、野茂対ランディ・ジョンゾン

小雨の降る休日にNYの株価を気にしながら目を覚ますと、
枕元のTVのコントローラーでBSハイビジョンを付ける。
TVのデータ放送で、NYの株価が分かるというのは便利だよね。

するとヤンキース対タンパベイ・デビルレイズをやっているよ。
しかもピッチャーがランディ・ジョンソンと野茂。
こういうのを人生の小さな幸福という。
寝室でぼんやりと1回を見終わってリビングに降りていく。
ヤンキースは松井、精悍なジータ、不良のシェフィールド、
薬物利用で凹まされたけど個人的には好きなジオンビーなどタレント済済でみていて楽しい。
しかも相手が野茂。こっちも応援したい。

理想の展開としては松井だけホームランを打って、
ランディは力投かなわず救援が打たれて野茂が勝ち投手という展開を願いながらみる。

年はとっても軽く151キロを出すジョンソン。
2mを越えるリーチからサイドスローで投げてくるスライダーも、落ちる奴と
ボール・ゾーンから遙かにスライドしてきてストライクになる奴があってスペクタクルだ。

野茂もスピードガンの数字は落ちたけど、高めが伸びてヤンキースに連打をさせない。
勝ち投手の権利を得た段階で野茂は交代。
デビルレイズのピネラ監督は、溢れる闘志と冷静な計算の両立が出来るタフな喧嘩上手って感じ。

7回にゴッド・ブレス・アメリカが流れるとみんな起立する。
アメリカなんて勝手な国だけど、こんなシーンを見ていて羨ましく感じるのは、
こうして自然に国民が一体感を持てる伝統があるからだ。
テイク・ミー・ホーム・ザ・ボールゲームの音楽もすでに郷愁の味わいがある。
しかしなんで日本人の俺がNYのチームになんか肩入れしているのだろう。

でも巨人は東京のチームじゃない。
あれは読売の渡辺さんという人のチームだ。
それならNYを舞台にした映画、小説、音楽、絵画に親しんだ分、ニューヨークには親近感と憧れを感じる。

そして選手の個々の魅力だ。選手としての力だけでなく人柄にも魅力を感じる。
人柄などしょせん知りようがないから感じるだけだけど、これは個人の感性に従うものだから仕方がない。

コワイ顔のランディは日本のテレビにゲスト出演した時は、大男にありがちなシャイな好人物に見えたし、上原ファンには申し訳ないが、あの言動はあまり好きになれない。
仁志よりもジーターの人柄とプレーに魅力を感じるのだから仕方がない。

かつての巨人のようにすっかり先発メンバーの名前を憶えてしまった、ヤンキース。
こうしてたまにゲームを見ながら、今年の秋もまた楽しませてくれるのを待っている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 19, 2005

失恋の歴史:6真面目は裏目

社会人になりました。このころ私は必死です。なんとか仕事で1人前にならないと!
大学時代は遊んでしまったし、小理屈ばっかほざいてる小僧だったんです。

でも運命と出会ってしまった・・抜群の美女と・・
彼女は私のエロティック・ミューズ! 抜群の美貌とグラマスなスタイル。
惚れてましたよ。名前はマリリン(安直だけど)にしましょう。

就職した職場では研修が行われ、美人の彼女は話題になっていました。でももう一人綺麗な子がいる。
その子に惚れていいるのが、次回主役になる無口ジャニーズ系のN、ライバルなら最大の敵、
というか遥かにあっちが上なので、Nの目標が違うのは安心材料。

そして研修が終わった夜、俺達新人と彼女達とは合コンです。
お酒が入ってみんな若いからね、盛り上がる。でも俺は翌日も志願して仕事を入れていたのでした。
俺は最近こそ力みが消えてきたけど、あの頃は必死。力入りまくり。
それでコンパは途中退席して、明日に備えました。
だって仕事を頑張りながら長期戦で口説けばいいやって思っていたのよ。

翌日深夜、仕事を終えてアパートに帰ってくると1本の電話が。
「おい、はるく、大変だ、昨日、飲み会が終わった後、マリリンとYが消えたぞ」
「えっ・・」
どうもお持ち帰りというヤツだったようです。
すでにセックスにはスピード時代が来ていたことに気づかなかった私。
というかそういう環境にいないと人は変化に気がつかない、とアルビン・トフラーも言っていましたね。
言ってないか(笑

Yというのは全然ハンサムではないけど気前が良くて人柄も良い奴。男にも良い奴でやっぱり脱力系。
仕事踏ん張りますってタイプじゃない。でも女には凄かった。
ともかく俺から見れば魔法だね。在職中、何人と遊んだのでしょうか。

あんまり力んでいるとモテナイんですよねぇ。
よく雑誌なんかでは夢を追う男性って素敵って云うけど嘘だな。それとも単に俺が駄目なだけでしょうかね。

さらにこのエピソードには悲惨な続きがあって、その電話してきた男、
こいつは結婚予定の彼女がいるのに、マリリンと遊んじゃいました。
恋愛は自由市場だからほんと弱肉強食。
累進課税もないからモテル奴は羨ましいです。でも人生ってこんなもんだよね。

次回は「本当の気持ちが透けてるぜ」
この悲惨なるサーガのラスト・エピソード。
なんてな。こういう書き方がイタイ俺。でも直さないの。開き直っているから。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

April 18, 2005

ブルース・オールマイティ

出世争いに敗れたTVレポーター、ブルース(ジム・キャリー)はヤケになって神様を毒つきます。
それに呆れた神様は彼に自分の代行させることにして・・

こういう「作り話」を語らせると、悪達者なほど巧いのがハリウッド。
主演のジム・キャリーはアクの強い個性で引っ張り、
それを神様役のモーガン・フリーマンは父性を感じさせる器の大きな演技で受け止めます。
主演女優はジェニファー・アトキンス、大ヒットTVコメディ「フレンズ」のレイチェル役にして、
B・ピットと離婚した美女です。

全体がとても巧みです。
まず神様のオフィスの風景。神様のオフィスの映像化って言われてみたら難しいでしょ。
それを実に何気なくセンス良く作ってあると思います。

黙々と掃除をしているのは1種のメタファーになっていてこれも何気なくカッコいいよね。
その後はペースよくギャグを連発していきます。突き出した手の瞬間芸、からモーゼの奇跡のパロディ、
びっくりしたのは検索エンジンの名前、なるほどと思ったけど巧すぎる。

半ば力に慣れたブルース。着々と自分の野望と神様の代行を進めて行く過程でも笑わせますが、
物語りを進める上では、必ず「カセ」が必要になる訳です。
万能だから、なんでも出来ました!
では観客はハラハラできません。
その枷を愛にもってくる。定番だけど効果的。
ここでジェニファー・アトキンスの力が他の2人に及ばないのが惜しい。
これで3つどもえで盛り上がれば、この映画、ロケットのごとく天高く舞い上がれたかもでした。
逆にジム・キャリーだの、モーガン・フリーマンってスゴイなんだなぁ、と思いますね。

そして後半、もう話しの構造は見えてますよね。
神様役は大変なんです。
体操競技なら着地点を観客は見てるいのですけど、これも巧い。

「海を割ってみせるなんて手品みたいなものさ。でも母親が子供を育てるのは真の奇跡さ」
向こうの脚本家は、洒落たこと言うんだよな。

「人は日常の中で奇跡を行う力がある」
明日からの日常生活とお仕事、みなさん頑張ってみますかね。

| | Comments (10) | TrackBack (4)

April 17, 2005

ベルリン ルー・リード

アメリカはヨーロッパをオールド・ワールドと呼ぶ。
もはやエネルギーを失った旧大陸。
しかしアメリカの詩人は毒を秘めた甘美な退廃は、悲劇的な歴史の重層からしから生まれ得ないことを知っている。


このアルバムは、ニューヨークの地下(アンダー・グラウンド)にベルベットを纏うロック界の暗黒の王子、
ルー・リードが、オールド・ワールドの悲劇の街「ベルリン」をモティーフに作り上げた傑作。

すべての曲が「暗い感覚」に彩られ、一語一語語るように歌われる。
冒頭の不気味で陰惨なざわめきから始まると、後は娼婦への報われぬ愛と、サディステッィクな同性愛と、ドラッグの救いと、マゾヒズムの悦楽、子供を奪われる母親の話・・が歌われる世界に落ちていく他ない。
同時に付属のリーフレットが素晴らしく興を添える。
笑顔を浮かべセピア色に色褪せ、折り重なる死体のような人々が縁取りされた小冊子には、
歌詞ごとに丁寧な写真が添えられ、語るようなルー・リードの歌唱と共に見ていくと、あたかも1編の映画を鑑賞する気分になる。写真の1枚1枚には、必ず1点赤く染められた箇所がある。それは部屋の片隅の恋人のズボンに、ベットを汚す血液に、血塗られた人形に、・・最後は遺影の首を飾るコサージュの1点に記されている。


退廃をテーマーにした過去のあらゆる芸術と比較してもこのアルバムは見劣りしない。
ヴィスコンティの華麗、コクトーの陰影、マーラーの憂鬱と比肩する敗者の沈鬱と耽美。
最も近いのはヴェルレーヌの「悪の華」あたり?
あらゆる巨匠達が実現しようとした、絶望の深さを凌駕する暗黒の詩情がここにはある。
最後の「悲しみの歌」を聞き終わった時は、救われたような不思議な感覚が起こるだろう。
私は悲惨を歌うことが人の気持ちを救うという矛盾に驚嘆する。
それは本物の芸術だけが持つ、深遠に触れた証なのだ。

これが発表されたのが73年。このころのロックには世界を撃つ本物の毒があった。

「ベルリン」
君の身長は5フィート10インチ
素晴らしい夜
キャンドルの明かりと氷を浮かべたデュボネ

「悲しみの歌」
アルバムを見つめていると彼女はまるでメリー女王
誰かが彼女の両腕を折ってしまったんだ…

歪んだうわ言の呟きから始まったこのアルバムは、聖なる敗北に浸る喜びと共に終わる。
ルー・リードこそカリスマという名称が相応しい。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

形而上学派

実は私が絵画に目覚めたきっかけは、中学の美術の教科書の片隅に載っていたキリコの1枚の絵
「街角の神秘と憂愁」でした。よって私の最も思い入れの深い画家でもあります。

ところがまるでスケールが違うにせよキリコはパリの街角に貼られたポスターでブルトンにシュルレアリズム宣言を書かせ、デルボーにタンギーにマグリットに霊感を与えた人なのでした。
どうもこの人の絵(特にイタリア広場シリーズ)は強烈なショックを他人に与えるようです。

形而上学派というのはキリコが自分の一定時期の画風に名づけた名前ですが、
形而上とは、本来、現実の存在を超越した本質のことです。
さらにキリコはベックリンの絵画と思想的にはニーチェの影響を受けます。
「悲劇の誕生」1872年、でのニーチェに言葉、
「夢の世界の美しい出現はあらゆる造形芸術の前提である」と発言しましたが、
この言葉を美術の世界で実現したのが形而上学派です。

ジョルジオ・デ・キリコ:1888―1978年。
トリノの秋の夕暮れの広場でニーチェの言う
「かぎりなく神秘と不安に満ちた孤独な詩情」を創造した人。
トリノといえば私のもう一つの美的感動、フェラーリをデザインした世界1のカロツェリア、ピニンファリーナの本拠地。こういう因縁ってあるんだよね。ちなみにピニンの今のデザイン部長は日本人の奥山清行さん。

「街角の神秘と憂愁」1914年
:ルパン3世の映画「Drマモー」にも出てきます。きっと好きなスタッフがいたんだね。
この絵画は個人所有なんだよなぁ・・1度でいいから実物が観たい。
「預言者の償い」1913年


ジョルジオ・モランディ:1890-1964年
あちこち画風を変えて、結局良いのは1910年代に限るキリコに比べると
地味だけど一貫して形而上学派を続けたひと。
冥想的な画風を誇る究極の静物画家。この人の実物を見た感動は忘れられない。
ただの花瓶や茶碗に、永遠という時間の神秘を塗り込めた奇跡の絵画。
「形而上学静物」1918年
「花」1920年

次回はシュルレアリズム。長くなるので2回に分けるかも。俺の好みだからな。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

April 16, 2005

上海反日デモ雑感

40代の家庭持ちのオヤジならしごく当たり前のことなんだけど、実際の生活は現実に沈浸している訳で、
逆にこのブログにはあんまり現実的なことは書かないでおこうと思っていたのだ。

でも今日の上海での反日デモはなかなか印象的だったので書いてみる。
まぁ、なんだ。皆さんご覧になったとうり、ということなんだけど、ここで中国は怪しからん、とか、
やはり日本は政治的な努力が足りなかった、とか言っても始まらない。

ともかくこういう事が起こり、これからも起こり続けるだろうという流れがある。

するとどうなるか?
そんな展望は、私なんかに分かるくらいなら世話はないのだけれど、
日本製品不買運動が広がれば日本企業は苦戦するかもしれない。
でも鉄鋼や工作機械などは日本からまったく買わないという訳にもいくまいし、
デモの参加者が今後、まったく日本製品を使わずに生きていくのも煩わしいだろう。
でもシェア、売り上げは落ちるかもしれない。

そこから先はそれこそ実際に中国で仕事をしている数千の企業、数万のビジネスマン達の
先々の判断しだいだけど、これは難しいな、と思えば投資を減らすだろう。
日本にとっては苦汁の選択だろうが、中国への投資が減れば、一種の先物買いとして買われている上海の不動産ブームなどには、あまり良い影響はないかもしれない。
日本人が出ていけば、これはチャンスと別の買い手が出てくるかもしれないけどね。

イギリスの新聞各紙が意外に日本寄りの発言を掲載してくれているけど、
なんとなく日露戦争時に軍艦建造でイギリスが日本に多大な協力をしてくれた歴史を思いだす。

これは当時のイギリスとしては、ロシアはデカイ、ヤバイで、まぁ、たいした役には立たないだろうが、
背後から日本が突ついてくれれば、こっちは有利になるという国際外交上当たり前の思惑だったんだけどね。
今回もイギリスにしてみればドイツにだけ常任理事国?
冗談じゃない、身近な存在は潜在的脅威というとこがあるだろう。
それから日本は長い間、世界の金持ちクラブの1員で、やたらに働いて金ばっか稼ぐのはムカツクけど、
大人しいし、いざとなればたかれるし、金持たせていても軍事的な無茶はしない、という安心感はある。
それでとりあえず応援というスタンスだろう。

まぁデモってる現地の中国人にしてみれば、圧倒的に豊かな日本、同胞は雇われまくり、看板は目立ち、贅沢をしやがって、という鬱憤もあれば、経済的に支配されるのでは、という危機感もあるのだろうね。
だからといってそれを日本人が理解して、なおかつ観光にも行きますという、広大無辺なる心情の持ち主は日本人にも少ないだろうから、そういう点でも法外な金を落とすお得意さんを失うのは、純粋に商売上なら得策ではない。
でも彼等はそんな商売を越えた世界に生きているのだろうから、こういうことを言っても始まらないだろう。

ともかくこういう事が起こった。
そして日本人はそれを観た。
そんな4月の土曜日だった、ということだ。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

April 15, 2005

ティアーズ・オブ・ザ・サン

民族間の虐殺がおこるナイジェリアからアメリカ国籍の女医を救う特殊部隊のミッション。
主演はブルース・ウィリスと傑作「マレーナ」で成熟した女性のエロスを表現して
一躍スターになったモニカ・ベルッチ。

誇り高い世界のヒーロー、正義の味方のアメリカ軍特殊部隊と、キリスト教の献身そのままの女医さん・・・
うーーん、ちょっとは世界の空気を読めと・・・言っても無駄なんだろうな。
まぁ、良いけどさ。今や日本も回りの状況が不穏だからね。

具体的にはモニカ・ベルッチは、演技力のなさを露呈したと思います。
「マレーナ」は素でやっていたのかもしれない。きっと日常から色っぽい、ああいう人なんだよ。
でもアフリカの女医さんにはなりきれず、表情は硬く美貌が浮いていました。
ブルースの下半身が説得されてしまったのは感じるけど、付き合わされる部下はたまらんなぁ・・・

逆にハリウッドでは珍しいタカ派のブルースはハマってます。軍人役が似合いますね。

映像全体の色合いは、アフリカの戦争モノとして大成功した「ブラック・ホーク・ダウン」のテイストです。
今後はアレをどう追い越すか? がこの分野のテーマでしょうね。

また空母から飛び立つ艦載機は本物なので迫力満点!
こうやってハリウッドと米軍の蜜月はつづくのだなぁ。
轟音とともに飛び去るジェット機は文句なくカッコ良い。
俺は人をナパームで焼き払うのは真っ平だけど、
スピード好きなのでこういうシーンを見るとミサイルなしで究極のスポーツ・カーとして乗ってみたくなります。


ps
題名に注目したい。「太陽の涙」。いい題だと思います。
太陽が一番豊かな大陸、アフリカ。
かつてはアジア・アフリカ会議なんてのがあって、
同じ後進国同士だけど、お互いがんばろうね、なんて言っていた。
今や世界の成長を引っ張るアジアと、部族間の戦乱と虐殺、エイズの破壊的な蔓延が続くアフリカとの差はあまりにも大きい。

沈み行く大きな夕陽は、本当に泣いているのかもしれない、とちょっと思いました。

| | Comments (6) | TrackBack (5)

April 14, 2005

花神 中巻:1 司馬遼太郎

蔵六は高名、高給な江戸の学者の地位を捨て、無給に等しい長州藩の仕事に付きます。
待遇は最低であり、周囲の信用もありませんが、桂小五郎だけはその天才を信じます。
蔵六はやがて大村益次郎と名を変え、長州の対幕府戦争の準備を進め、士官を育て、実戦の指揮を執り、
無類の冷静さと天才的な作戦で巨大勢力である幕軍を撃破します。
馬に乗れない為、行軍する時は、軍列から離れて、てくてく歩き、
腰には団扇、頭に百姓傘のいでたちで戦線へ出ます。
圧勝した後も兵隊と共に凱旋せず、一人故郷に帰り、今だに医師だと思っている老婆の為に膏薬を作ります。
・・・クール過ぎて司馬遼太郎が膨大な資料から描かなければ、フィクションでも有り得ない様な人物ですね。

以下、この本からの抜粋。
この時代、外国勢力を徹底排除する攘夷思想というのは無茶なものであったが、
その一種の狂気がヨコの300藩、タテの階級制度を焼き払った。
西郷に見えて、福沢諭吉など秀才の開明論者には見えなかった現実である。

ヨーロッパ人は世界を自分の家のように歩き回る勇気と好奇心をもっていた。
「万里の波涛を越えて来る豪胆おどろくべきである」
冒険性の欠如に極東民族の世界への遅れがあった。

長州藩が危機感に燃えていたのは、対馬をロシアの軍艦が一時占拠、
下関海峡を外国船が運行という現実があった。

正義とは現実の打算から飛び跳ねる狂気を含まねば成立しない。

攘夷という狂気の現場で正論を説くのは死をまねく。
無知の為エネルギーが沸騰している攘夷の集団にあって物事が分かっている人は殺されるか疎外された。
狂気を発した集団は理性的制御を悪とする。
過激であるほど内容は空疎になる。英雄と豪傑は空論に沸騰し空死する。
狂気が長州藩を支配し、桂小五郎も高杉晋作も久坂玄随も熱狂する下部を押さえることは出来なかった。

高杉晋作は詩的気質と天才があったが蘭学を学ばなかった。
数学他学問も成らず、操船術さえ煩わしがった。しかし物事の本質を理屈抜きの直感で理解した。
魔術的政治的才能と遥かに勝る幕府の軍船に夜襲を掛ける巧緻と胆力もあった。

この本には引用したい部分が多いので2回に分けます。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 12, 2005

油断大敵

役所広司と柄本明が泥棒と刑事に紛するやっつけ映画だと思ったら、子役が天才、菅野莉央ちゃん。
まぁ、泥棒と刑事の話はどうでもいい。結構面白いけどね。

しかしこの映画では、もっと重要な教訓を男達は受け取るべきだ。
それは、娘を信用するな!ってこと。
役所が寡男なんだよ。そこで娘の保育さんの夏川結衣とデキル。
イイヨな。もう色っぽい夏川の方から寄ってきまくり。はい、どうぞ、って感じ。
モテルんだよ。役所だから。
まーーーったく。
まぁ自慢じゃないが、俺が寡男ったら絶対ない展開だね。
でもそれは良しとしよう。
別に俺が良しとしなくても映画は映画だし。少し冷静になろう。
それを娘が邪魔するんだよ。
けな気なふりしやがって、菅野莉央だからまた巧いんだ。ピンクのパジャマ姿で、掃除機なんかブーブーかけちゃう。ホロっと来るよ。でも俺は画面に向かって叫んだね。

「騙されんじゃない、役所!、娘を信用するな」って!
ここで叫ぶのは男同士の仁義だよ。
案の定、娘は自分がデカクなると外国に行くんだよ。
「私を束縛するの」なんて言いやがんの。
バーーーカ、最初に束縛したのは自分だろうが!恩知らず!
あの時、夏川と結婚してれば、役所はどれほど人生を謳歌出来たと思っているんだ。
パパの人生を返せ!

まっーーーたく、娘はダメだね。
俺の下の娘も小6なんだけど、もう尻も触らせないの。中2の長女は論外。
いいだろうが、撫ぜるくらい。その太股をちょっとで良いから撫ぜさせろよ。
お父さんは別に卑らしい気持ちで触りたい訳ではないんだよ。

自分の娘が育ったという現実へのオマージュというか、形而上学的に受け入れる為にもその実存を触覚という身体的感覚から確認しメタファーとして昇華したいというだけなのにーーー。
嫁もすっかり娘にかまけ切り。
受験だから、勉強の世話ばっかしてやがんの。俺のブログだってちっとも読まないんだ。
もう良いよ。俺は一人で生きていくから。

この映画でも感動したのは、人は生きて行く為に「翼」がいるという表現。
俺にも幸い翼はある。ヨロヨロだけど、なんとか飛んでるぜ。
そうさ。
どうせ家族があっても男は1人!
こんな翼でも跳んでやらぁーーー!!!

| | Comments (2) | TrackBack (2)

April 11, 2005

「無限」に魅入られた天才数学者たち:8

仮に集合{1,2,3}があった時、そのすべての部分集合を:べき集合:と呼びます。
この場合、べき集合は、
空集合{Φ}、{1}、{2}、{3}、{1,2}、{1,3}、{2,3}、{1,2,3}
となります。
3つの要素からなる集合のべき集合は8つで、それを求めるには2^3=8となります。
べき集合には、元集合の各要素は、
どれかの部分集合に入るか、入らないか二つのうちの一つです。
そしてこれは元の集合とべき集合の間に、1対1対応ができないことをしめしてます。

この考えを要素無限の集合に当てはめてみましょう。

有理数は一番小さい無限X0(アレフ0)でしたね。
実数は、有理数にない無理数(一部、超越数)を含み、1ランク上の無限濃度を持つX1(アレフ1)であり、
数直線という連続体を形成します。
連続体の基数をcとしましょう。
そこで要素無限の集合、0-1間の有理数の一つを仮に
0.abcd・・・と表わします。
abcd・・・の桁数を無限にして、かつabcd・・・に任意の数字を当て嵌めればどんな数字も出来ますね。
そして各abcd・・に1から9までのどの数も当てはまるか当てはまらないかのどちらかですが、
連続体上の数はどれもみな0から9までの数を無限に組み合わせれば表現できます。
これで
c=2^X0
:連続体cは有理数集合の、べき集合である、となります。

アレフ0のべき集合を作ったら、一つ高次の無限、連続体を形成するX1(アレフ1)ができました。
2^Xo=X1です。
この式の命題は;連続体仮説;と呼ばれます。
では今度は連続体cのべき集合を作れば新たなdが出来て、d=2^cとなるのでしょうか?

さらにこれを一般化して
2^Xα=X^α+1、なのでしょうか?
:これは;一般連続体仮説;と呼ばれます。

アレフX*X=Xでしたから、2^X0=X1は正しいように思えますが、数学はしばしば直感を裏切ります。
一つの集合のべき集合を創れば常により高次の無限になるのか?
その間に別のアレフは存在するのか?しないのか?

カントールはこの証明に苦しみ精神を病みますが、
死後、この命題は現在の数学体系では証明も反証も出来ない;決定不能命題;であることがあきらかになります。

無限という神の秘密の園に入り、正気を失った古代のラビたちと同じ運命がそこにありました。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

April 10, 2005

失恋の歴史5:テニスコートには「猿の手」の呪い

学生時代、テニスが好きでやっていました。
これは軟派目的でやっていた訳ではなく純粋に大好きだったんです。

そんなある日、コートに行くと、「河合その子」(知らない人はグーグルしてね)そっくりの美人が!
これはラッキーですね。でも前々回も書いたけど、すでに幻想は抱いてないの。
俺がモテル分けねぇー
だからプレーが終わった後、彼女が駆け寄って来た時は何処にいそぐのかなぁと、
ボーッとしていたら

「あのΟΟ大学の方ですよね」って俺に話し掛けてくる。
・・・!
「キャンパスでお見かけしました、私1回生のその子です」
・・・決まったぜ!
今回こそ決まった。

でもこんな子いたかなぁ・・俺はこういうの目をつけるのも鈍い。何、見てるのだろうか。
そして何度かテニスに行った後、思い切ってデートのお誘いを。
返事はOK.

やりました。前日は部屋を掃除して(←考え過ぎ。でも転ばぬ先の杖っていうじゃん、あっ用法が違いますね)、
なんとか少しでもマトモな服も用意して、どこでご飯を食べてお茶を飲んでそれから・・と完璧な予定をたてて、
すっかり安心して読み出したのが
「世界怪奇短編集」J・W・ジェイコブスの大傑作「猿の手」!
これが詰まらない作品だったら良かったのにーーー。
あまりに偉大にして完璧なるこの傑作!

当時ネットがあればなぁ。
そこで高ぶりを吐き出せたのに。

翌日、彼女と会った俺の頭は「猿の手」一色!
どこがどう素晴らしいか、口から泡を吹いて説明しました。
一滴の血も見せずに悪夢を想起させる卓越したアイデア。
ゆるむことのないリズム。全く無駄のない展開。完璧なホラー短編。
扉の向こう側を想像させるこにより初めて可能になる際限のない恐怖について。
そもそも恐怖とは何か? その本質とは・・
はい、こういう話題を初回のデートでしたい女性はいるでしょうか?
そういう事にアタマの回らないオレ・・・ 
2時間後、ハッと気づいた時には、限りなく引いているその子ちゃん・・

そら引くわな・・・
怪奇小説に興奮している男がモテル訳ないだろ!
気づけよ・・・

彼女はその後、スマートで都会的な男の子と交際を始めました。
本当にスマートって言葉が似合う男の子。
絶対に怪奇小説に興奮しなそうな奴。まぁ俺と付き合っているよりは楽しいよなぁ・・

次回は社会人編「真面目は裏目」。
題名は地味だけど、このシリーズの最大の衝撃があなたを襲う!
お暇だったら読んくれやい。

| | Comments (6) | TrackBack (0)

April 09, 2005

夕陽のガンマン

苛烈な日差しの照り付ける荒野に、非情な男達の血が砂塵にまみれる・・
マカロニ・ウエスタンも考えてみれば死に絶えた分野だなぁ。

この映画は悠々とした力感と血肉の通ったゆったりとしたテンポで進み、
5分に1回、山場のあるジェット・コースター映画の時間枠に慣らされてしまった私などには、
どこか文学的な大作を読んでいるような感覚を思い起こさせられてしまう。

イーストウッドはダーティ・ハリーシリーズを始め、幾多の傑作に主演をつとめ、
今や老齢の大監督でもあるのだけれど、カッコ良さではこの映画が1番ではないだろうか。
ちょっと常軌を逸した輝きと存在感を放ち、そこにたたずむだけで、観客は孤独でタフな男の詩情を感じ入る。
セリフなどほとんどない。ただ立って、歩み、馬に乗り、タバコを咥えた表情のアップが繰り返されるだけなのに。

興味深かったのは、当時は最大の見せ場であったろう、トリッキーなガンプレイが、今観るとどうも子供っぽく感じられてしまうという面白さ。
製作は1966年で、この当時、日本人はもちろん、製作国のイタリアでもスペインでも多分アメリカ人ですら、拳銃に過大な幻想を抱いていたのが分かる。
今や日本人ですらグァムやハワイの射的場で拳銃を撃ち、遠距離ではいかに当てにならない武器であるかを知っているので、帽子や果物を撃ち落とすシーンには違和感がある。
ルパン3世のような映画で、次元大介の役回りなら良いけどね。
あっ、次元は髭といい、帽子といい、煙草の咬み方といい、この当時のイーストウッドのパロディなのかな。


そしてお待ちかねのラスト!
むせび泣くエンニオ・モリコーネ作曲のトランペットにのって繰り広げられるクライマックスの銃撃戦。
結果は分かっていても身を乗り出して見てしまうのは、やはりもう歌舞伎とかシェークスピアの舞台劇ばりの様式美に達しているからだろう。
ともかくこれはDVDに残して何度でも見られる傑作だ。

偉大なるセルジオ・レオーネ、エンニオ・モリコーネ、クリント・イーストウッドの3人に乾杯!
そして3人を引き合わせてくれた運命にも乾杯だ。

ps
原題は、「For a Few Dollars More」こっちのほうが渋いね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 08, 2005

体育が苦手なことについて

小学校からずっと体育が苦手だった。
どのくらい苦手かというと、通信簿で1を取ったことがあるくらい苦手である。
最近のヌルイ3段階評価では、かつての5段階評価での1の値打ちは想像することも困難であろう。
40人のクラスで1を取れるのは1人か2人なのだ。

よく「僕も体育は苦手なんですよ」などと謙遜する人がいるが、良く聞いてみるとせいぜい通信簿は3くらいが多い。2を取ったという人はまれである。
これはクラスで下位何名までと決まっているので統計上からも2だってそうそうとれるものではないである。
そこへいくと私は普通に2であった。最高で1,2回は3を取ってしまったこともあったが、3学期制で何十回も通信簿がくるのだから、まぁ1回くらいは3を取っても仕方があるまい。
大人ならこのくらいの実績を数字として残してから「苦手である」、と主張して欲しい。
数字でモノが言えて初めて大人というものである。

特に苦手だったのは、器械体操である。
器械体操と名の付くものは、全部苦手だった。
鉄棒。なんで鉄の棒にぶら下がってあんな不自然な動きをしなければならないのか分らない。
逆上がりとか、別に出来なくて日常生活になんの支障もないだろう。
猿じゃあるまいし、グルグル鉄の棒の周りを回っていたい人間に私は文句はない。
しかしそれと同じことをしたくもない私に強要しないで欲しい。

マット運動、なんで人間があんなマットの上で転がったりしなければならないのか!
この地球上には重力があり、過剰に飛んだり跳ねたり、あまつさえ回転したりなど正気の沙汰ではない。
やりたいんなら月でやれ、と言いたい。

跳び箱、アホか、と思う運動である。あんなものは跳ばなくとも邪魔なら脇を走りぬければよいのである。
どうしても乗り越えなくてはならぬのなら、落ち着いて怪我のないようにゆっくりと昇って降りてくればよろしい。

陸上競技は分る。人は走る必要に駆られることは、侭ある。これは認めてもよい。
球技全般。これも分る。球技は楽しい。私は下手であったが楽しいのは認める。
水泳。これも分る。ただ私は泳げない。息継ぎが出来ない。
でも人は陸生生物であって、はるか何億年も昔に苦労の果てにやっと海から陸に上がったのだから、そうそうムキになって、飛び込みの練習をしろ、とか夏休みまでにプールを往復しろ、などといわなくても良いのである。
泳げない人間は自覚して水に近寄らなければ良いのだ。

私など、海辺のリゾートに行っても、まず胸より深いところには行かない。
というより水そのものにほとんど浸からない。
たいていは浜辺のビーチ・パラソルの下で本を読んでいる。
これなら泳げなくてもなんら不便はない。
津波が来たらどうするかって?
その時は人間諦めが肝心である。
武士として潔く溺れるのみ。
でも人は恐怖する対象には案外直感が効くものである。
そうやって上手く生きていけるのが本来の人である。

以上、運動音痴の負け惜しみであった。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

April 07, 2005

フォー・シンボルス          レッド・ツェッペリン

デビューアルバムでいきなりハードロックの極限に到達してしまった怪物バンドのアルバムから、
1作を選ぶのは難しい。
彼らはピカソのように、アルバムを発表するごとに新たな境地を開拓していったのだ。

結局選んだのは娯楽性と芸術性のバランスが一番良いと思う4枚目。
レッド・ツェッペリンが楽々と偉業を成し遂げたのは、ギターのジミー・ペイジが集めたメンバー達の力量が全員卓越していたからだ。ヴォーカルのロバートプラントは長い金髪のヴィジュアルを含めてハードロックヴォーカリストの帝王だし、ドラムスのジョン・ボーナムはジミー・ペイジからオファーがあった時、同時に雷神からもドラムスとして誘われていて、今の雷鳴は彼が叩いているという噂は本当である。
ベースとオルガンのジョン・ポール・ジョーンズは、地味だがらつ腕の実力者で、ど派手な他の役者達を渋くまとめる。サッカーでいうと華麗な司令塔はペイジだけど、センターバックで守備の要みたいな人だ。

結局、彼らはレアル・マドリッドにも劣らぬスーパー実力者軍団だったのだ。
このアルバムは1,2曲目のブラック・ドッグ、ロックンロールは、
ハードロックのヒット曲として見本のような仕上がり。でも彼らはそれを冒頭でさっさとやってしまう。
後半、アルバムが退屈になる心配をしていないのは後の曲も全部素晴らしい出来だからである。
3曲目の限りなき戦いはアコースティック・ギターを主旋律にして幻想的に仕上げている。
4曲目、「天国への階段」は構想の雄大さ、メロディの美しさ、主題となる歌詞の深遠さ、
ハードロックの頂点に相応しい歴史的名曲である。
アルバムジャケットの内側に印刷された歌詞と岩山の頂点にランプを掲げる神か仙人のような老人の姿が象徴するのは、彼らツェップの目指す音楽で創りあげる天国への階段というメッセージだろう。
5曲目ミスティ・マウンテン・ホップ、ブルージなハードロック。バッスンバッスン叩かれるドラムとベースが印象的でツェップが決してプラントとペイジ2人のバンドでないことが分かる。
6曲目フォア・スティックス、ブルージに前曲の続きのように始まると、キーボードが幻想的な雰囲気を出してくる。もうあらゆる手を自在に使えることを軽々と聞くものに見せ付ける凄味。
7曲目カリフォルニア、2曲続いたヘヴぃーな印象を洗いながすような曲。
8曲目レヴィー・ブレイクス、ボーナムの圧倒的なドラミングから始まる堤防の決壊の危機を歌った歌。
ハードなロックが持つ切迫感が伝わってくる曲でこのラストナンバーまでまったく緊張感が途切れずに終わる。

ともかくメガヒットの代表曲から深遠なメッセージ曲、ブルージーな幻想曲まで自由自在。
この後ツェップはちょっと聞きづらいハード難解路線に行って当時のファンを戸惑わせるが、
このアルバムを聞くともう何でも出来てしまい、
残った挑戦はあの方向しかなかったのだろうということがやっと納得出来る。
卓越し過ぎた存在は、同時的なファンでもやはりリアルタイムで理解するのは難しいと、
30年以上を経てやっと分かった。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

April 06, 2005

バウハウスとダダ

バウハウス、この名前はモダンアートでは良く聞くことになる名前です。
そのわりに分かり難いのは絵画とはちょっと違う建築を中心にした芸術運動だから。
でもモダンアートの理解には不可欠なので、さわりだけでも憶えておきましょう。
1919年、ドイツ、ワイマール社会民主主義政府の支持からドイツの建築家が
バウハウス(建築家の家)美術工芸学校を創ります。
この学校はマイスター(親方)制度を中心にしたカリキュラムで、
画家、彫刻家、建築家が共同して芸術と産業、生活の統合を目指しました。
ウイリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動の継承を目標にしました。
カンディンスキー、クレーなどが教鞭を執り構成主義、表現主義的な芸術を生みますが、
1933年、ナチスにより解散させられます。

ダダ:第一次大戦での破壊的、虚無的、退廃的な傷を受け継いだ芸術です。
ウルトラマンに出てくる宇宙人に同名のものがありますが、この芸術運動から名づけたと思います。
日本の怪獣モノは奥が深いですね。

過去の芸術のドグマをざっくり掴むと宗教に捧げられたゴシック、人間を復興させたルネッサンス、
自然への視線を重視し動じに対象への再現を拒否し始める近代諸絵画、次第に内面への旅になるモダン、
芸術は宗教から乖離し、人間から飛翔し、自然を乗り越え、内面への旅を終えたのです。

ダダは自律的な製作自体を拒否します。
さらに芸術の中心が始めてヨーロッパ(ダダはチューリッヒ、ドイツもありますが)
からアメリカNYに移ります。

デュシャン:ダダの代表者。人柄にもカリスマ性がありインタビュー集など多数出てます。
「彼女の独身者たちに裸にされた花嫁、さえも:大ガラス」:題名も不明なら実物も?
「泉」:便器を飾っただけのレディメイド芸術の始祖。

個人的見解を述べれば、ダダは、「行き着いた果ての荒野」、です。
ロックにたとえるとパンクって感じ。
気持ちは分かるけど楽しくないよ。


次回は形而上学派。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

April 05, 2005

私は如何にして巨人を心配するのを止めて他のスポーツを愛するようになったか

男の子はヒーローを求めるものだけれど、かつての巨人にはその願いを満たしてくれる王と長嶋がいた。
長嶋のダイナミックで陽性な輝きは説明不要のカッコ良さだった。
王の1本足打法は日本刀を思わせ、求道的な雰囲気がカッコ良かった。

ともかく巨人一筋だったが、TVでは巨人の中継しかやらないし、
「巨人の星」なんて漫画はあるし、日本中が巨人ファンになるもの当然だったのかもしれない。
しかし当時は脇役もまたよかった。
俊足二枚目の柴田、ちょっと知的な高田、渋い役回りの土井、一癖ありそうな黒江、苦労人といった感じの国松、
ストライクの入らないエース、不良少年堀内、
タレントが多彩で個性があり、黒澤映画みたいな見事な配役だった。

今、まったく巨人戦を見ない。
最後に夢中になったのは何時だろう、と記憶を手繰ると1989年日本シリーズ、対近鉄戦が思い浮かぶ。
巨人は3連敗し後、あの歴史的発言がから4連勝して優勝した年である。
このころは夢中で応援していた。
この発言があった日、私は仕事上の研究会があったのだが、経過を知りたくてしょうがない。
携帯式のラジオを買い、講演の合間にそっと取り出すと、なんと他にも携帯ラジオを持ち出す人がいるではないか!そしてその周りには、会場にいた男達のほぼ全員が集まった。
あの時代、それは自然だったのだ。帰りの電車に乗り込む時、近鉄の加藤という投手が
「巨人はパリーグ最下位のロッテより弱い」という歴史的名言を吐き、私は震えるような悔しさを覚えた。
そのくらい巨人へは密着した思いがあった。

それが薄れだしたのは何時ごろだろう? はっきりとした区切りは思いだせない。
Jリーグが出来て、Wカップ予選で日本中が大騒ぎになるドーハの悲劇が93年である。
サッカーに興味はなかったが、日本を応援する快感に目覚めた。
巨人は変なオーナーが威張っているし、良く考えれば、なんの義理もないものな。
さらにWカップ・アメリカ大会を見て、おぼろげながらブラジルサッカーの凄さと美しさを感じることが出来た。
世界が熱狂し、スタジアムにはより高い祝祭性があった。

WOWOWの開局が91年である。私は92年くらいに入会したと思う。
そこで世界で行われているボクシングを観てまた吹っ飛んだ。
信じ難いほどのスピードとパワーに溢れた怪物達が、スリルと興奮に満ちた試合をしているではないか。

プロスポーツの観戦は、「何か凄い奴を観たい」に尽きると思う。

かつてオリンピックがオリンポスの神々へ捧げる祭典だったのは、
優れたスポーツには日常を超えた神性が宿るからだと思う。
奇跡の目撃者になりたいという思いは、人類に深く根ざした願望ではないだろうか?
息の呑む興奮と日常性からの遥かなる脱却によるカタルシス。
それがスポーツを観戦する時の目的だ。
大リーグが人気なのは、やはりそこに怪物が多く生息するからではないか。
ランディ・ジョンソンなんてキング・ギドラみたいじゃないか。
やはり日本のプロ野球は、難しいところに来ていると思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 04, 2005

花神上巻 司馬遼太郎

日本に近代軍を創設し倒幕軍の総司令官になった天才軍師、大村益次郎の生涯を描いた1編です。
映画「ラストサムライ」を観て読んでみることにしました。

司馬作品は骨太に描かれる人間像に品格がありやはり素晴らしい。
女性や酒、食べ物など日常の喜びを見出していく池波正太郎や、無名人の健気な哀歓と情を描く藤沢周平も良いのでしょうが、価値観の根本に「志」を据え、歴史の激動の中に人を描く司馬作品はハナに付くこともあるでしょうが、やはり私は好きです。

村田蔵六(後の大村益次郎)は馬にも乗れず、船にも弱く、剣が使えずそれでも軍事の天才であるところが、
人の「器量」という面から見て興味深いです。
知的探求に生き、他の全てに禁欲的なるところにも大変共感でき楽しく読めますね。

以下、膨大な資料から生まれる司馬作品から抽出しての覚え書きです。
1)シーボルト談、日本人を評して「美しき国に住む善良な人々」
2)蘭医が活躍した背景には、オランダ語を知るものが他にいなかったから。
3)蒸気軍艦を見て、外人技師の力も借りず見本も設計図もなしに作ろうとした日本人の戦慄の決断とエネルギー。そして3年後には作り上げている日本人の民族的才能。
4)滅亡への不安と恐怖と、その裏打ちとして新たな文明への憧憬は危機意識に裏打ちされる時、強烈になる。
5)極貧の傘張りから蒸気機関を作り出す西洋に生まれていれば天才技師だった嘉蔵。
そして無能な武士が威張りこの天才が恵まれない社会への腹立ち。
日本人は人間についての価値観が間違っている。
6)日本人は古来、性欲には寛大だった。禁欲思想もなかった。好色本が売られ性欲は3度の食事のように自然だったのは、ヨーロッパ人のような大性欲がなく、野放しにしても社会秩序が大混乱になるほど強くなかったからであろう。
7)骨を削るような刻苦を粗食のため視力が衰えた。これほどの知的エネルギーがあった。
この時代の日本人の知識欲の強さは世界史的な驚異である。
8)革命は最初、思想家が現れ非業の死をとげ、戦略家も天寿をまっとうしない、そして技術者の時代になる。
9)ナショナリズムは知性とは無関係で多分に気質的なものである
10)蔵六は戦争経済を考えいくらあれば勝てるかを常に概算した。
11)幕府の公認学、朱子学とは世界観、哲学として体系つけた孔子の教えである。
12)原理を優先して実存を軽視すれば良き知恵も曇る。原理に合わぬからと言って実存と攻撃することはいけない。
13)日本人は漢文を学んだが生活までは儒教化せず、古くなると捨てる。オランダから蘭語を学ぶが、これも捨てて英語にする。丁度古い道具を捨てるように未練を残さない。
明治維新で儒教を捨て廃仏毀釈で仏教も捨てる。それを気軽に自然にやるのはどうしてか?
司馬の質問に中国の友人曰く「日本人は騎馬民族の末裔だから」文明は道具になる。
14)オランダを通して僅かでも西洋世界を知っていたことが大きかった
15)名利を求めずひたすら患者につくし、勉学を広めた緒方洪庵の偉さ
16)人の一生は何気なく過ごすことも出来るが鮮明な主題のものに生きてゆく人もいる。


桂小五郎(木戸孝允)との出会い、宇和島藩への関係、何よりあの地位にいながら幕府でなく長州藩に至る過程など、村田蔵六の運命は細い糸の上の歩くようで、人の生涯にめぐり合いと運は不可欠ですね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 03, 2005

「無限」に魅入られた天才数学者たち:7

無限に関する研究を続けるカントールをクロネッカーは執拗に妨害し、個人攻撃を始めます。
同時に実無限という考えに取り付かれたカントールは、精神病の発作を起こします

googol(あの検索エンジンは、ここから取られたのでしょうね)
:子供の考えた宇宙で1番大きな数。1000…0.1の後ろに0が百個並びます。
10^googolをグーゴル・コンプレックスと呼びます。
でもこれは100^googol,1000^googol…きりがなく続き、
それでも最後に「最大の数」に1を加えればもっと大きな数になります。

アウグスティヌスは「神の国」で以下のように無限と神について記述します。
「神の知恵は計り知れず、それゆえ神はすべての数をご存知である。
無限に続く数は計り知れないけれども、その無限性は神の知の及ばぬものではない」

しかしカントールは果てしなく続く数の不安に打ち勝ち、心理的な壁を越えます。
そして;超限数;という定義を考えます。「有限を越えた数」のことです。

次に考えたことは、
「すべての有限数より大きな数の中で、1番小さいもの」があるはずだ、ということです。
それをω(オメガ)としました。:あらゆる有限数より大きく、超限数では1番小さい数:です。
オメガはギリシャ語のアルファベットの最後の文字です。
するとω+1、ω+2、・・、2ω・・、ω^2・・、ω^ω
と無限に多くの無限を作り出せることになります。

こうなると無限の理論を作り上げる為に、新たな表記が必要になります。
そこでカントールは無限集合の:基数:(1番小さい無限、整数の無限)をヘブライ語の最初の文字、
X0:アレフ・ゼロ(ヘブライ語のアレフへの変換が出来ないので形の似たXを使います)と名づけました。
ここで前半のヘブライ→ユダヤ神秘主義とのつながりがあったのです。

さらにカントールは、無限の算術法則を発見しました。
X0+1=X0(整数全体の無限に1を足しても、より高い無限の階層にならない)
X0+n=X0(整数に任意のどんな数か足しても、1対1対応は出来るので同じ無限)
X0+X0=X0(全整数に全分数を加えて全有理数になっても同じ階層の無限)
X0*n=X0(nを任意の数として何を掛けても無限の階層は同じ)
X0*X0=X0(よって加算無限に加算無限を掛けても無限の階層は同じ)

直感に反する無限の算術をカントールは完成させました。
これでこの本の12章までです。
次章は「連続体仮説」  この本の山場です。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 02, 2005

失恋の歴史4:デキのワルイ映画のように

大学です。
受験勉強も終わり、年齢からいっても本気でGFが欲しくなる頃ですよね。
男性4人、女性3人のグループ交際が始まりました。
はい、この発端だけで、出来の悪い映画のようにラストが読めますね。
そうです、私が一人あぶれました。

――――完――――

一組カップルが出来て、二組できて、残り女の子は一人。
俺はそれを友達になったT君と争っているつもりだったの。
でもその二人はとっくに、最初にデキテいたのでした・・・・トホホ。

もうね、つくづく嫌になったのは、俺にはそういう空気を読む才能がないのだなぁ、ということを自覚したこと。
でも隠していたT君は、悪気はなかったの。親切な人のイイ男だったな。
小学校、中学校、高校、大学、社会人とそれぞれ友達はいたけれど、今、振り返るとT君は一番の友人。
タイプは俺とは正反対。
本は読まない、映画は見ない、音楽聴かない・・・でも料理が上手くて
(結構ご馳走になっていました。地方都市の大学だったので親元を離れて暮らす学生が多かったのです)日曜大工なんてお手の物。
現実的な能力のない俺とは大違い。
性格は脱力系・・優しいのね。こういう男ってモテルよね。
彼女だけじゃなくて結構GF一杯いました。(肉体関係アリのね)
俺は若い頃は怒りっぽくてすぐ喧嘩沙汰。
そうすると彼女を通して電話を掛けてくる。
「はるく君、どうしたの? Tちゃん寂しがってるよ」
「・・・(プンプン)」
「あっ、そうだ、今度バイク買ったよ、CBX。乗りにきなよ」
「アレはブレーキがインボードでカッコ悪い」
「Tちゃん、はるく君がCBXはカッコ悪いって」ケラケラと笑い声が聞こえる
まぁ、そんなこんなで仲直り。
Tは浪人して留年していたから2歳年上。
俺のことは、弟みたいに見ていた面もあったのかもしれません。

次回は、テニスコートの出会いには、猿の手の呪いが!
です。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 01, 2005

エディット・ピアフ:聖なる怪物

1915年12月、パリの路上で産まれる。
彼女は単に素晴らしい女性歌手ではなく、ジャン・コクトーが「聖なる怪物」呼んだ歌い手。
たまに聞くと鮮やかな情感の豊かさと、なによりその力強さに圧倒される。
シャンソンとはかくもパワフルでタフな歌なのか、と認識を新たにさせられる。
7歳から路上で歌い、17歳で娘を産み、20歳で娘を死なせた女性は、軟弱な日本の男の背中をどやしつける。
その頃まだピアフは名前さえなかったのだ。
悲しみを歌う歌手だけど、聞く者の涙の中に希望を湧きたたせる。
多分彼女自身、そうやって生きてきたのだろう、と思わせる。生き様ってヤツですか。それを感じさせるよね。

歌った名曲はたくさんある。
ラ・ヴィ・アン・ローズ、パリの空の下、私の神様、
でも圧倒的なのはやはり「愛の讃歌」
ミドル級のチャンピオンボクサー、マルセル・セルダンと恋に落ちた直後、
ピアフ自身によって歌詞が書かれ歌われた名曲。
しかしセルダンは試合後、ピアフのいるNYへ向かう途中、墜落事故で不帰の人になる。


「空が落ちるかもしれない。
地がひっくり返るかもしれない。大したことじゃない。
あなたが愛してくれるなら。
世界の果てまでも行きます。
あなたがそう言うなら、お月様を取りに行きます。
宝物をとりに行きます。友達を見捨ててもいい。
国も捨てます。あなたがそうして欲しければ。人が笑っても平気。
何だってしてのけます。あなたにそう言われれば。

もしもいつか人生があなたを奪っても
あなたが死んでも、あなたが愛してくれさえすれば平気
あたしたちは永遠を生きるから
神様はきっと愛し合う二人をまた結びつけるでしょう」by愛の讃歌

歌詞の後半が良くなかったなぁ。
ピアフは余計なことを書いてしまったのかもしれない。
それをあの歌声で歌ったから、神ですら迷ったのかもしれない。
でも愛はイイよね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« March 2005 | Main | May 2005 »