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January 2005

January 31, 2005

リアル・プレイング・ゲーム

きっかけは去年の暮れだったのだ。

ベテランの女性スタッフの一人が首を痛めたので、一月ほど休ませて欲しいといってきた。
友達とバレーボールをやってから、上を向けなくなってしまったのだそうだ。
はじめは大したこともないだろうと、湿布を貼っていたがダメ。
次に整体にいってもダメ、
とうとう整形外科に通ったが思わしくない・・・お医者さんから安静と短期入院を進めらてしまったらしい。
まぁ、一人くらいかけても仕事に差し支えはない、とそのときは思っていたのだ。

そしたらなんともう一人のスタッフが盲腸炎!
さらに鉄人といわれた男が40度の熱。 
さらにもう一人がインフルエンザ! 
今日、別の一人のお母さんがヘルニアで入院!彼女は付き添いで休み!
ジャーン! 職場はたちまち戦場と化した。

とどめは家に帰ると嫁が咳きしっぱなし、じつは俺も喉が痛くて口がきけない状態!

人生って悪戯モノですね。この間までみんな元気だったのに。
まぁ、なんだ。
生きるって、トラブルとの戦いだよね。

ロール・プレイングゲームならぬ、
リアル・プレイングゲームをやらされていると思うしかない。
トラブルをどう解決するか、折り合うか。
火を吐く魔物は出ないけど、困り事には変わりない。
乗り越えるなり、避けるなり、なんかやんなきゃしょうがない。
経験重ねて、技を磨いて、「平気、平気」の呪文を覚えてすすみましょう。

40度の男性と、インフルエンザ女性は復帰済。
はやくみんな良くなれーー!

俺も明日は声が出るといいな。

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January 30, 2005

異邦人 カミュ著

フランス文学を代表する不条理を描いた小説、と思っていると、とっつきにくいけど、
実際に読んでみれば,文庫130Pの小編です。

バルトの云う、無垢なるエクリチュール、を体験したくなり読みました。

ムルソー(「死」と「太陽」の合成語)の行動原理は,
一般人でも夢幻のなかでなら(世間的な体裁や縛りがなければ)充分ありえることであり、
その夢幻の人を,カミュは「異邦人」として描いたのだと思いました。

小説は全編にわたり文章が素晴らしく、詩的な音韻に満たされた小宇宙的な世界では、
ムルソーの感覚(殺人は太陽のせいであり、自分の処刑には大勢の見物人の憎悪の声を望む)は、
むしろ非常に論理だち、リアリティがあるのではないでしょうか?

リゾート地(生活のくびきを逃れ自由な感覚と夢想のなかで呼吸できる時)で、
人が太陽と海の浜辺で、ひとときの午睡をまどろむ時、
灼熱の太陽が理性の条理を溶かしたその刹那、見知らぬうちに、ふと誰の傍らにも寄り添う時がある、
澄みきった奈落へ誘惑。

その一瞬を切り取ったこの作品は、そんな見知らぬ誘惑を人に気づかせるが故に生命力を持つのではないか? と思います。


文章が非常に美しいので、さわりを少し書いてみましょう。

われわれは長いこと浜を散歩した。太陽はいま圧倒的だった。
砂の上に、海の上に、ひかりはこなごなに砕けていた。

彼の姿が私の眼の前に踊り、燃えあがる大気のなかに踊った。
波音は正午よりもっともの憂げで、もっとおだやかだった。

ほんの一瞬、私は夏の夕べのかおりと色とを感じた。
愛する街の、また、時折り私が楽しんだひとときの、ありとある親しい物音を、・・
すでにやわらいだ大気のなかの、新聞売りの叫び。公園のなかの最後の鳥たち。
曲がり角での、電車のきしみ。港の上に夜が降りる前の、あの空のざわめき。
夏空のなかに引かれた親しい道が、無垢のまどろみへも通じ、また獄舎へも


うーーーん、カッコ良いぜ、カミュ。
これからは、カミュ様と呼んでしまう。

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January 29, 2005

寝ながら学べる構造主義 :まとめ  内田樹著

結局、構造主義とは、
「我思うゆえに我あり」、で始まった近代哲学の根本からの見直しにあったようです。

我思うって言っても、それは言葉で思われているんだよね。
そうすると、その言葉とその言葉を生みだした価値観に最初から支配されているよね@ソシュール。

その時点で思うことは、語られた歴史の中で思うことだ、
すでに既成の価値体系のなかに囚われているよね@フーコー。

願望、禁止、命令、判断のない主観の介入を欠いた無垢な言葉、
何も主張せず、否定もせずただそこに屹立する言葉で、無根拠に耐えることから考えよう@バルト

自分だけは利口だと思うとこが致命的だね、特に自分が利口だと思っている奴ほど救いがたい@レヴィ

自分も一種の狂気がなければなりたたないんだよね、狂気の上に語られる「知」ってなんなのさ@ラカン

だから
もう自我と主体とかの論議は不毛だから置いておいて、

これからは、
思考を形つくる「規則」と「構造」について考えよう!
ということらしい。

無茶苦茶大ざっぱなまとめでした。&内容も適当です。
興味を持った方はとりあえず上記「寝ながら学べる構造主義」は、最初の1冊目としてはオススメできます。
終わり。

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January 28, 2005

全豪オープン:女子準決勝

マリア・シャラポワvsセレナ・ウィリアムス

久々に勝負への執念を見た試合。
シャラポアのセイレーンのような悲鳴が、怪物セレナを目覚めさせた。

俺は最近、テニスは見てなくて、元々みんなが騒ぐほど、シャラポワの顔は好きじゃない。
(顔だけならクリニコワとかデビュー時のハンチュコワが好き)

強さも今一つ分かりにくかった。
昔の名選手にはあった,必勝の型がみつからないんですよね。
かつてナブラチロワはレフティのサーブを相手のバック(当時の女子選手では強く返せなかった)に入れ、ネットを取って決めてしまう。
グラフはバックをスライスで、フォアを逆クロスで決める。
ウィリアムス姉妹は,見れば分かる圧倒的な身体能力。
要するに強い理由が素人にも分かる型がある。
あれだけスムースにネットに出られてボレーが上手ければ勝てないよ、とか
フォアの強打とスライス(ボールが逆回転してスピードは遅いけど伸びてきて低く弾む)を混ぜられたらリズムが取れないな、とかね。(昔、週末プレーヤーでした。上手いコーチと打ち合っていると、強打だけのラリーは、コーチが上手いから続くんですよね。でもスライスを混ぜられるとアウト)

シャラポワは長身で強打してくるけど、見ていてなんとなくギコチナイ。
長い手足をもてあましている感じ。ネットプレーも上手くはないし、サーブも特に秀でてない。
緩急がなくて素人の強打自慢選手みたい・・
それを圧倒的な(死ぬほど練習した@本人談)練習量とハイテクラケットで補っている感じ。
勝負根性だけで勝ち抜けるほど世界のテニスは甘くないと思っていた。

今回やっと気づいたのは,キャーキャー言いながらどこまでもボールを追う執念。
走って走って、強打する。地道に入れとけってボールがない。
相手の強さに応じて、どこまでもけた外れの闘志がでてくる。

それで戦う気持ちって見る人に伝わるんだ。
強い気持ちに圧倒されて巻き込まれて感動する。
シャラポワの白く光る眼(肉食獣、メスのライオンって感じ)と叫び声。
決めて叫んで、外して叫ぶ。何に叫んでいるのかって、自分の限界に叫んでいる。もっともっとって。
絶対、絶対、絶対に勝つ。負ける自分を許さない。
もう金もあるし、名誉もある。ラクに行こうぜってノリがないとこが異常だ、っていうかだから世界1なんだ。

叫びつづけるシャラポワが、ガッツポーズで拳を握りしめるのは、
もう吹き出す不安と苦しさに諦めそうな自分を,ギリギリで踏ん張らせているからだと思う。
勝利を目指して、厳しい壁をよじ登る時、指の爪を剥がしても血まみれの手で登坂を続けるだろう自分への確信と、押え込んでも押え込んでも敗北へと転落する恐怖に爆発してしまうような不安を、かろうじて封じ込めているのを感じるから、こっちは言葉を失い、目が離せなくなる。

「キャー」「アウ」「キャー」「アウ」って、もう最後はテニスだかなんだか分からない大騒ぎ。
でも2人の気持ちの力に感動した。

試合の直後、セレナがシャラポワの背中をそっと触れたね。
シャラポワがいかに苦しい努力の果てに今の自分と戦って負けたか、その喪失感が分かるから出来る行為だ。

テニス観戦復活させるかな。こんなゲームならまた見たい。
いや決してリターン時の,揺れるシャラポワのヒップが目当てではなくて。

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January 27, 2005

小さな子供

深夜、俺は古びたアパートから外を見ている。
外は安手の繁華街で、雨にうらぶれたネオンが光っている。

気配に振り返ると、狭い部屋の中に吊るしたサンドバックに、
妻が膝のバネのきいたアッパーカットを打っている。
「ウマイ」と、思ったらそれはボクサーの友達の高田さんだった。

高田さんが「泊めてくれる?」と言うので、
「いいよ」と言うと
高田さんは妻の寝ている布団にもぐり込む。
すると妻と寝ていた小さな子供が飛び出したので、俺は怒鳴りつける。

高田さんは「ゴメン」と言って部屋を出ていく。
出ていった子供は戻って来きても、うつむいて寂しそうに座っている。
5才位の小さな女の子である。

「この子は俺と沢口靖子との間の子供だよな」と俺が言うと、
妻は呆れて
「あんたと私の子供でしょ」と言う。

俺にはまったく育てた記憶がない。
ずっと放っておいたのか、と思うと俺は罪悪感でいっぱいになり、
これからは出来るだけ、一緒の時間をつくってやろうと思う。

という夢を、以前見ました・・・

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January 26, 2005

レアリズム絵画の革命の意味

素朴な絵画。題材も色彩も地味。
大衆と日常に立脚した絵画ですが、これこそが革命的だったのです。

絵画はその始めに
最も聖なるモノとし「神とキリスト」が描かれ、
ルネッサンスでは「ギリシャ・ローマの神話」にまで対象が拡大され、
新古典では「軍事的英雄のナポレオンから自画像」にまでなり、
ロマン主義では「神秘的な夢幻的な風景」となりました。

しかしどの対象もみんな共通していえることは劇的、崇高、華やか、ということです。

その視点を転換したのが、今から見れば一見地味な写実主義です。
今みればただのジミーな絵画。
でも発表された当時は、聖人でも英雄でもないただの農夫や洗濯女を画く! 
これが驚きだった訳です。
さっそく零度の歴史、フーコーの教養が役に立ちました。なんてな。

バルビゾン派、フォンテーヌブロー派などのパリ郊外を中心にした絵画運動です。
フランスは宮廷文化が最も栄えました。その反動で革命が起き、そこで共和主義の精神が発達します。
それがこのレアリズムを産み、20世紀に、エコール・ド・パリなどの流れとなり芸術の都としての名声を確固たるものとします。

代表的な画家
ミレー:「落穂拾い」「種撒く人」農民画家、真面目な主題で日本人に人気の画家。
俺の絵を、みれー、と言いました。本当に言ったと思うよ。

クールベ:「オルナンの埋葬」私は天使を描かないと言ったひと。史上初の個展を開いた人
お腹がすくと、なんか、くーるべ、と友達をカフェに誘いました。

コロー:「モルトフォンテーヌの想い出」バルビゾン派の代表。
狡い画商に、コロー、っと騙される、人のイイとコローがあったかもしれない。

ドーミエ:「洗濯女」都市の庶民派。
自分の絵が、どーみえ、るか、いつも気にしていました。

次回からは近代以降を少しづつ・・・

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January 25, 2005

戦場のフォトグラファー ジェームス・ナクトウェイの世界

J・ナクトウェイは,世界中の紛争地域の最前線で活躍するカメラマン。
これはそのドキュメンタリー・フィルムです。

彼は廃墟になった街を、トラックに山積みになった死体を、片手と片足を失い物乞いをして生きる男を、
歪んだ悪夢のオブジェのようにやせ細り、変わり果てて餓死するアフリカの民の現状を、
傍若無人なブルトーザーに追われ無数の虫が飛び交う産廃処理場で、
ゴム・サン一つで汚物のぬかるみに足をひたして(オエッ!)
屑を拾う、日給85セントの少年達を撮り続けます。

ナクトウェイは、死体の山の前で誰も何者も非難しません。
彼には人間に起こる悲惨さは、人間自身が宿し作り出すものだと、知り抜いているようです。

銃弾と催涙ガス、ロケット砲が炸裂する修羅場をくぐり続ける現場で、
自分のとっさの判断だけを守りに、静かなたたずまいを崩さないナクトウェイは、
悲惨な取材対象者への敬意を忘れず、山刀を振りかざしリンチに狂う暴徒の中に入り込み、
襲われる男の為に土下座をします。

「恐怖はないのですか」
「恐怖を乗り越えるのは仕事のうちです、マラソンランナーが苦しみを乗り越えるように」
(このへんのくだりはパウロの言葉に似たようなものがあった覚えがあります)

反権力を安全な場所から叫ぶジャーナリストにはないその姿は、
世界には悲惨が満ちていることを伝導する聖なる修道僧のようです。

悲惨な状況を伝えるメディはますます少なくなっていて、
「雑誌社の広告主は、自分のCMの側に集団虐殺された写真が載ることを好まない」
と答えます。
確かに宝飾品や贅沢な衣服、旅行の隣のページに、凄惨な地獄絵図を載せてもらいたくはないでしょうね。


最後まで声を荒げることなくナクトウェイは語り映画は終わります。

「人々が目を背ける現実を僅かでも変えたい。
救いのない苦痛と悲惨、リン化剤に焼かれた子供の顔、
たった1発の銃弾が生む言葉を失うほどの苦痛、りゅう散弾に吹き飛ばされる足、
戦争はたった一人にさえ許されない行為を、万人にしているのだ」

「私は人の不幸で食べている。カメラを持った吸血鬼にはなりたくない。
私が人を思いやる心を失い、野心に走ったら魂を失うことになる。
私の役割が認められるのは人を思いやる心しかない。
人を思いやれば人に受け入れられる。
その心があれば、私は私を受け入れられる」

(涙
・・・機会があったら観て下さい。

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January 24, 2005

ブルドッグ

肉厚のバカ面で筋肉男のヴィン・ディーゼル、
「トリプルX」の写真を観た時は、絶対コイツのファンにはならないな、
つーか、コイツを売り出すなんてよっぽど人材いないのねハリウッド、と思ったら、
イヤー、カッコ良いですね。これからはヴィン・ディーゼルだぜって、2時間で宗旨替えしてしまいました。
おもしろかったです、「トリプルX」。

今回は、麻薬捜査官の役で、手柄をたてたら報復に愛する奥さんが殺されました。
ヴィンは復讐を誓います、
ってもう何度観たのか、読まされたのか。
この手の映画、小説で、殺され役の奥さんとご主人達が集まれば、
かなり大がかりな同窓会が出来るんじゃないか、ってくらいありふれまくった話。

いくらなんでもつまらんだろう、題名も「ブルドッグ」だし、IQが80以上あったら騙されないな。
でもまぁヴィンだから観るか、どうせ料金のうちだしと思ったら、さすが勢いのあるスターは違う。
悪役だか善玉だかわからない暴れぶりいつもどうりの迫力で、脚本にも小味の利いた工夫あり。
まぁまぁの仕上がりです。

PS
あの肩がいいよな。
ウエイトをやる以上、ああいう肩を作りたい! せめて1/3位でいいから・・・
俺は骨格華奢だからさ・・・高望みはしないの。もういい年だし・・・

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January 23, 2005

サロメ

日光あたりでよく言われる、「猿め」という苦情を題材にした映画ではなく、
聖書に取材したオスカー・ワイルド原作、
「性愛と死」をテーマにした極限のドラマの映画化。

フラメンコとバレエのトップダンサーが、カルロス・サウラの映像美の中で踊ります。

王女サロメは、愛を拒絶した預言者ヨハネの首を自らの踊りの代償として要求、
切り落とされた首に
「おまえに口づけをしたよ、ヨカナーン」と囁きます。
オーブリー・ビアズリーの傑作がモティーフになっています)

ロケ・バーニョスの音楽と、前半のダンサー達のレッスン映像が素晴らしい。
振り付けられるダンサー達の動きは当然ながら中途で終わり、何度も繰り返されます。
考えに沈む者、基礎の反復に励む者、しだいに動きがつながっていく過程は、
時に完成時よりきらめく光りを放ち、未完なるが故の切断された動きが、
見る者のイマジネーションを刺激します。

ダンサー達の妄執ともいえる献身が、美を司り創造する様は極めてスリリング。

問題は、後半、完成されたサロメが上映されるのだけど、これではただの舞台劇の映像化ではないか。
確かに文句のつけようのない美しさに満ちた究極の舞踏劇なのだろうけど、
これは本来、生で見るモノでは・・・

宣伝文句にあったメタ的構造、劇中劇と現実はどこでどう交差したのでしょうか?
私にはわからないのが残念でした。

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January 22, 2005

下妻物語   獄本野ばら著

ハードボイルドの精神と、教養小説(若者の成長を描いた物語)の構造をもったお笑い青春ストーリー。

主人公の桃子は、ロリータ・ファッションに夢中の女子高生。
ロココの精神に魂を捧げ、可愛ければヨシ、軟弱でヨシ、実用性を嫌い、
道徳や真実よりも、甘い享楽と優雅を愛している。

損得を無視し、場合によっては身の危険もかえりみず、徹底して自分の信条へこだわる桃子は、
ハメットやチャンドラーに始祖を持つタフな男達のアメリカン・ハードボイルド・スピリットの正統な後継者! 
ともいえる・・・かも・・いや言える!

相手役のイチコは茨城は田舎のヤンキー娘。
田舎のヤンキー、族のレディースとしてこちらも正統派。
あふれる独特な知性と浪花節な心情、涙の過去には泣かされます。

お話はそんな二人の出会いから予想通りの掛け合い漫才で、笑えるエピソード満載(ここで、どこがどうおもしろいと書いてしまうと一種のネタバレになるので、ギャグは読んでのお楽しみ、にしておきます)
走れメロスばりの感動のクライマックスまで突っ走ります。

映画化された写真が使われる本の表紙は、大人の男が買うにはちょっと恥ずかしいけど、
機会があったら読んでみてもイイかもです。

PS:1
印象的なセリフ。
「甘いな。世の中、ナメてると痛いメに遭うぞ」
ヤンキーなイチコにこう問われると、桃子は言い放つ

「世の中ナメて暮らしていくというのが、私のテーマなの。私はロココ主義だから。ロココは真のアナーキーなのよ」
カッコ良いぜ、桃子。


物語はこの名言を裏切ることなく、ビルドゥングス・ロマンとしては意図的に中途半端に、
あくまでロリータ宣言を貫く覚悟のまま終わる、ネオな仕上がりです。

PS:2
深田恭子って、富豪刑事とか、こういうすっ跳んだ役柄が異様にハマルのは、地のなのだろうか?

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January 21, 2005

寝ながら学べる構造主義 :5 内田樹著

ラカン:精神分析医
「鏡像段階」とは、幼児が鏡で自分を手に入れることです。

人間の子供は動物の子供と比べて、極めて未成熟なカタチ(自分で動けず食物も完全依存という状態)で、
この世に生を受けます。それは「原始的不調和」「寸断された身体」という太古的な心象を残します。

それがある瞬間、鏡を見た幼児はそこに、「私」、をみるのだそうです。
それまで不統一でバラバラな感覚のざわめきが、一挙に「私」として統一される。
ラカンの言葉でいうと
「ある種の自己同一化として、つまり、主体がある像を引き受けるとき主体の内部に生じる変容として、理解される」

しかしそれは鏡の中の「私でないもの」を「私」と「見立てる」ことによって
「私」を形成するという「つけ」を抱え込み、
「私」の起源は「私ならざるもの」によって担保され、
「私」の原点は「私の内部」にはないのです。
これを「鏡像段階を通過する」といいます。
人間は誕生と同時にある種の狂気を病むことになるのです。


次に人間が大人になる為に必要なことが、他者と言葉による交換=社会化です。
この社会化こそが「エディプス」と呼ばれるものです。
人は生きる上で数々の困難、不条理な出来事に遭遇します。
そしてその困難と不条理を受け入れなければ生きていけません。

どうやって受け入れるのか?
ラカンは困難と不条理を「父」と規定します。
そして「父=不条理」が人生に介入する結果として、
自分の困難な運命は「説明」され、人は不条理を受け入れる、とします。
これもまた理由なき詐術です。

結局、人はその人生で二度大きな「詐術」を経験して正常な大人になります。
これでは「おのれが正気であることを自明の前提とする」
すべての知はとりあえず疑問符がつけられます。

ラカンは、「知」そのものが神経症的病因から誕生した
「症候形成」かもしれない、という疑問を生じさせました。

次回はやっと最終回。
まとめをやって終わりにします。

なんか気持ちが悪い。今日も早寝だ・・・

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January 20, 2005

寝ながら学べる構造主義 :4 内田樹著

レヴィ=ストロース:「親族の基本構造」「悲しき熱帯」著
文化人類学者ですが、親族構造(親子、兄弟、親戚関係)を、
音韻論という、世界中の言葉は12の2項対立(0/1で表せるコンピューターと同じアルゴリズム)で表せるとした理論、で分析しました。

言語学を理論モデルとし、未開社会のフィールドワークを資料にした文化人類学者は、
20世紀思想界の常勝サルトルを粉砕します。

サルトルの述べる実存主義は、結局、西欧知性の思い上がりだ、としたのです。
著作、「野生の思考」では文明人と未開人は発展段階の差ではなく、
そもそも別の思考であり、関心の持ち方が違うだけで、
どちらも世界は思考の対象で、その点で優劣を付けることは出来ないと証明しました。

レヴィ=ストロースは、あらゆる文明が、おのれの思考の客観性を過大に評価する傾向を戒めます。
私たち全員が、自分の見ている世界だけが客観的にリアルな世界であり、
他人の見ている世界は歪められた世界であると軽蔑している。
これは傲慢であり、他人の生の持ちうる意味と尊厳を認めていないということです。

自分が「文明人」で世界の成り立ちに「客観的」な視点にいると思い込む人間ほど、この誤りを犯します。
レヴィ=ストロースはこの文明人の傲慢を許しません。
未開人も自分達の生の営みには「人間の生の持ちうる意味と尊厳の全て」が込められていると考えます。

もう一つレヴィ=ストロースの提言した重要な概念は、「終わり無き贈与」です。
人は「贈り物」を受け取ると負債感を持ち、お返しをしないではいられない、としました。
驚くことに「反対給付」の制度は、
夫婦愛、父性愛のない社会はあっても、知られる限り全ての人間集団に認められたのです。

その結果
贈与と返礼のせいで、社会は同一状態に止まらないように構造化されている、としました。

という記事を書きながら、「富豪刑事」を見始めた私でした。うーーーん、おもしろい。
次回はラカン、精神分析学者。

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January 19, 2005

ロマン主義:美術史概観

ロマン主義:1800年―
「ロマン主義」という言葉は中世騎士物語風という「ロマンティック」から来ています。
「彼ったら、とってもロマティックなの」という女の子がいたら、
その彼は、駿馬に乗り、甲冑を来て長い槍を持ち、竜と闘う人かもしれません。
カッコイイですよね。

この時代、文学ではバルザックなどの本格的な小説が出始め、音楽はベートーヴェンが登場します。

社会的には産業革命が進み、科学が工業を生み出し、その巨大な生産力のうねりは、神に死亡宣告を行い、
人は心のよすがを失い、幻想や夢幻など自らの内面への旅を始めます。
欧州のアジアへの侵略が本格化し、それはオリエンタリズムや異国趣味というロマン派の特徴をつくります。
劇的な構図でも、宗教から完全に離れて、現代の我々の感覚に近づいてきます。

ジェリコー:「メデューズ号の筏」
実際にあった遭難事件が題材です。ロマン主義の発祥の絵画です。

ドラクロワ:「民衆を導く自由の女神」「狂えるメディア」ロマン主義№1の人。
ジョルジュ・サンドやショパンとも交流がありました。

ターナー:「雨、蒸気、スピード、グレート・ウエスタン鉄道」スピードと鉄道というハイテクに注目し、
印象派の先駈けになった人。映画「ウォール街」で海から上がってくるダリル・ハンナが好きだ、という画家です。

フリードリヒ:「北極での難破」「教会のある冬景色」
現実と幻想の境を行く、極限の風景画家。

ウリアム・ブレイク:大ヒット映画「羊たちの沈黙」の前の原作作品「レッド・ドラゴン」では、
この人の絵「大いなる赤き竜と日をまとう女」がモチーフになっています。映画との関連で憶えておきましょう。

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January 18, 2005

S.W.A.T

題名がただのスワットかよ、昔「特別狙撃隊 SWAT」ってやけにおもしろいTVドラマがあったんだよなぁ、
みんな憶えていないだろうなぁ、なんて思っていたら、これはそのドラマの映画版なのでした。

映画は冒頭から戦闘シーンにハードな迫力があり、楽しめます。
SLジャクソンは、この人にしては並の仕事ぶり、(それにしてもゴルフ好きね。でも今回はスカート履いてなくて良かった)注目のコリン・ファレルは、私にはあまり魅力が・・・

代わりに良かったのは、麻薬王アレックスを演じる、オリヴィエ・マルティネス。
不気味でエロティックで底知れぬ邪悪さを良く出していたと思います。

ストーリも、まずスワット隊員の活躍とメンバーの個性をだすエピソードをリズミカルにつなげて、
麻薬王が捕まるとこも洒落たつくりになっています。こいう処が巧いよね。

後半は麻薬王の奪還合戦に突入!
派手な爆破シーンと意外な展開は、ジェットコースター・ムヴィーとして充分上出来。

人間が描かれてない。感動がない、なんてのは、ないものねだり。

2時間だけ、時間をわすれて楽しんで、翌日には忘れているような映画だけど、
2時間分はきっちり夢中にさせてくれます。そういう映画です。

PS
女性隊員としてミシェル・ロドリゲスが出てきます。
相変わらずの暗い目線と鍛え抜かれた肉体が魅力ですが、(女優に対して、鍛え抜かれた肉体の魅力、なんて褒め言葉が出てきたのって、ジェニファー・ロペスあたりでしたかね)
この人は「ガールファイト」という女性ボクサーの映画に出ていて、
ともかく綺麗なシャドーボクシングをするシーンがあるのです。
ボクシングの動きの魅力を、とても美しく表現していました。

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January 17, 2005

キル・ビルVol.1

かつて若き映画オタク少年だったタランティーノが、
深作ヤクザ映画を、日本刀を、梶芽衣子の「さそり」を、
雪の降り積もる日本庭園での決闘を、昔みた映画での千葉真一を、料亭を、刀鍛治を
クールだぜ、
と思ったのだ、ということは良くわかる作品。


ともかく俺(タランティーノ)はB級映画が大好きだから好きに造るぜ。
カットバックも音楽も感性のままに突っ走る! モラルも制限もなし!
途中はアニメにするもんね。
ついでに今時の日本女子高生も登場させちゃう。
とやりたい放題やってヒット作にするのだから、天才なんだろうな。
特に音楽の使い方がみんな巧い。
梶芽衣子の「恨み節」なんて、こういう使い方があったのかと、ひっくり返った。


PS:1
R15指定は妥当。
大人数相手の斬り合い場面はダレたし、血しぶき描写もあまり良い趣味とは思えなかった。
まぁ趣味の良さを楽しむ監督じゃないけどさ。

PS:2
ストーリー、「女囚、さそり」のコラージュでしょうか?
ベラスケスの「ラス・メニーナス」をリライトしたピカソ並のコラージュ。
でもあの映画、英訳されているのかな?
まぁ訳がなくても話しはわかるか・・・
日本訳のまま見ていた映画も多かったから、セリフもいつの間にか日本語になる?

印象に残ったセリフ
「フェラーリなんてゴミよ」
よく言った!
日本刀みたいな切れ味と凄みを持ったクルマを出してくれよ、日本車メーカー。
最近はハーレーにすっかり人気をさらわれた日本製大型高性能バイクが、
ハイトーンのサウンドを響かせます。あれも現代日本の誇る音なんだよね。
タランティーノはよく使ってくれたよ。
またお願いします。

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January 16, 2005

ロココと新古典時代

ロココ
1700年―
18世紀フランスを中心に栄えた文化。
庭園に造られた人工洞窟での岩の装飾という意味、ロカイユという言葉から来ました。
ベルサイユ宮殿の内装などがそれです。「パンがないならケーキをお食べ」なんていう人。

贅沢の究極形態で、時代が下がってぐっと薄まるとシロガーネゼになる。ならんか。
最近はロココのココロ@「下妻物語」で一躍有名になりました。

代表的な画家:ブーシェ「エウロペの略奪」「ポンパドール夫人」:ルイ15世の愛妾です。
王侯貴族、宮廷貴婦人好みの華やかな絵柄を描きました。
プーシェは、ゴブラン織りのタピスリーを造る工場長もしていました。
大航海時代からシノワズリー(中国趣味)が大きな影響を与え、ドイツの錬金術師、ベットカーの築いた
「マイセン磁器」も最初はシノワズリーから始まったんだってさ。


新古典主義1750年―
ナポレオンです。
ロココで貴族の贅沢趣味は頂点を極め、フランス革命。
ナポレオンが登場し絵画は一気に変わります。

新古典=ナポレオン、にしちゃいましょう。詳しいことは追々。

もう一つ重要なことは、18世紀前半、ロココの最盛期にローマの町のヘルクラネウムとポンペイで発掘が開始され、一気に古代趣味が爆発します。

その結果、古代趣味は三つに時代で描かれます。
ロココでは柔らかく女性的に、新古典では力強く、さらにこの先のロマン主義では夢幻的にです。

ダビット:「ナポレオンとジョセフィーヌの戴冠式」、デカイ絵です。自身が革命家でした。

アングル:「玉座のナポレオンⅠ世」ダビッドの弟子です。
グランド・オダリスク」「泉」はロマン主義、芸術のサイクルが短くなり二つの時代を生きました。

ゴヤ:「裸のマハ」「わが子を喰らうサトゥルヌス」「1808年5月3日」
ゴヤがここで出てきます。スペインの巨匠ですが、ピカソ、ミロ、ダリの現代絵画とバロックのベラスケスの間の人ですね。ポジショニングをつかんでおきましょう。
「黒い絵」(いかにも現代と古典の橋渡し的)を描いていたのがポイントです。

ウエッジ・ウッドの陶器が登場。

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January 15, 2005

寝ながら学べる構造主義 :3 内田樹著

寝ながら・・・の記事3本目。
後2-3回で終了予定。
(注:くれぐれも私の記事を鵜呑みにしないこと、ってもうわかってる?)

ロラン・バルト:記号論学者「エクリチュールの零度」
エクリチュール:文芸批評によく出てくる言葉。
要するに言葉使いのことです。集団に選択され実践される「好み」が言葉使いになります。
例、中学生が「ぼく」から「俺」に変えると、彼の行動や好みが変る。変わらざる得ない力が働いてくる。
「俺」と言っていて、「ママー、おしっこ」とは言えない。
しかし「ぼく」も「俺」も彼が発明した言葉ではなく日本社会に前からあった言葉です。
そこに不可視の規則が働きます。

よって営業マンのエクリチュールなら営業マンらしく、やくざはやくざのエクリチュールでしゃべります。
逆にエクリチュールの選択が、人の行動を定めるともいえます。
やくざの言葉使いで役人は出来ないし、医師の言葉使いで警官は出来ません。
人間はエクリチュールを選ぶことが出来るが、選んだ後はエクリチュールの奴隷になる、としました。

「テクスチャアの中で主体は解体する」
テクストと、作者の死という概念。
作品に出てくる主観に、人は自分の現実を忘れて捕らわれます。
例:敵から逃げる奴隷船から積み荷の黒人が海に投げ込まれる場面で、
歓声を上げる黒人観客@映画―あるいは想像上の人間:モラン著

近代批評ではテクスト(作品)から作者がそれを生み出すにいたる動機を探り、
言うつもりのなかった事を探るのが文芸批評の神髄とされていました。
それをバルトは、テクストは作者から独立して存在し主体は解体する、と逆転させます。
要は、作品だけみようね。
この人は…だからこういうモノを書いたんだよ、という批評は止めよう、とした訳。
テクスト至上主義の始まりです。


ps
カミュの「異邦人」を理想のテクスト、無垢なるエクリチュールとしました。
またバルトは俳句を究極のエクリチュールと見なしていました。

逆に裏切りのエクリチュールの代表として
汚染されたジャーナリズム(現実を写しているようで、編集、背景の音楽、
ナレーションで語り方など主観でいくらでも歪めることが出来る)を上げてます。

次回はカントを粉砕したレヴィ=ストロース。
文化人類学者という地味な学問で、彼は何故無敵のカントに勝利しえたのか!

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January 14, 2005

8mile

ラップ界のスーパースター、エミネム自身の半自伝的映画。
雰囲気のある「ルーズ・ユアセルフ」はアカデミー受賞曲。(カッコイイ曲です)

主演のエミネムの虚ろでやるせない目は、
若いホワイト・トラッシュ(白人の貧困層)の人間像をすべて見せてしまうようなスゴイ演技。才能を感じます。

ラップってライヴのノリが演劇と似ているから向いているのかな。
エディ・マーフィーもスタンダップ・コメディアンだったのを思いだしました。
向こうの厳しい観客に鍛えられ、無数のライバルから選別されるっていうのは想像を絶する才能なんだろうな。

廃墟のようなデトロイト貧困区と、そこでなんの希望もなく暮らさざる得ない若者達の絶望の深さが描かれます。
ここで「地に足をつける暮らし」ってのは、終日、旧式の工場で働かされ、トレーラーハウスで暮らし、「豚の餌」のような昼食の配給を待ち、
何時クビになるかわからない生活を受け入れるってことなのだ。
日本も閉塞的だといわれて久しいが、ここに描かれる貧困と暴力と悲惨に比べると
ディズニーランドの閉塞感って感じ。それもまた嫌な閉塞感だけどね。

母親役にキム・ベイシンガーが出てます。
老け役なんですが、やはり綺麗で色香まで感じてしまう。
後、暗いデトロイトの貧困地区で、白い顔を浮き立たされる、ブリタニー・マーフィーが
汚れた天使のように素敵です。

PS
笑ったセリフ。
ラップのデモテープを作ることになって、
「これが当たってプラチナ・ディスクを獲ったら大金がはいるぞ」
「そしたら積み立て債券を買ってスタジオを立てるんだ」
「積み立て債券? アホか! 黒人はオンナとクルマに金を使い果たすんだよ」

こういうセリフを黒人が平気で言うとこが、逆に健全だよね。

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January 13, 2005

04年 世界のボクシング界をふりかえる

04年、世界のボクシング界からメイン・ディッシュが消えた。
ロイ・Jが二度負け、タイソンは懸念が現実になった。
ロイのヘビーでの復活にも期待より不安が付きまとう。特に精神面での影響が気がかりだ。
デラホーヤは勇退し、フレイタスは沈み、ガッティはあのままやらせて大丈夫なのだろうか?

特に花形でなければならないヘビー級は酷い。
ビタリ・クリチコは大柄で力にあふれるが、ギクシャクした動きは見ていて楽しいものではない。
綺麗な動きをするクリス・バードは迫力に欠ける。

何故人々がタイソンへの思いを引きずるのか?
ボクシングの面白味は、弛緩から打撃への一瞬の躍動にある。
スリルと興奮が生まれる瞬間である。
今のチャンピオン達にはなく、タイソンやアリにはあったものがそれである。

シャーンバ・ミッチェルの敗北も情けなかった。
あのスピードには期待を抱いていたのに、1年9ヶ月ぶりのチューに3RKO負けってなんなんだよ。
勝てば伝説の始まりだったのになぁ…

今年の期待は
B・ホプキンス様(今一番好きな選手)が勝ちまくりとティトと再戦すること。
スピードスター、メイウエザーと王者チューとの決戦。
バレラ、モラレス、4度目の対決。
ジョームズ・トニーの頑張り。
コットがどこまで成長出来るか?
くらいだだろうか。

ともかくかつてのタイソンやロイJのような新人が出てくるの待つのみ。
何年待つことになるのかな。

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January 12, 2005

寝ながら学べる構造主義 :2 内田樹著

「寝ながら学べる構造主義」という本を、
さらに簡単に、いいかげんにまとめた2本目の記事です。
あんまり本気にしないで読んで下さい。

今回は社会史学者、ミシェル・フーコです。

フーコーの系譜学的思考とは、あらゆるモノには誕生日があり、
誕生にいたる固有の「前史」の文脈に位置づけてはじめて、何であるかが分かる、ということです。
例えば、ミケランジェロとルーベンスの絵画を見た時、現代の人にはほとんど同じように見えるかもしれません。しかし2人の活躍した年代は100年以上も違うのです。
ルーベンスが産まれた時、ミケランジェロは伝説の人でした。

このように、人は自分の経験していない歴史は認識出来ず、それゆえに正確は判断が下せない、
というのは人がつい忘れ勝ちなことです。
ある制度が生成した瞬間の現場、歴史的価値判断が混じり込まない段階を考察しようとしたのがフーコーです。

そんな研究の中でもっとも有名な発見は、正常/異常の境界概念です。
「狂気の研究」によると
精神病者の囲い込みは、欧州では17世紀頃都市の成立とともに行われ、
それまで狂人は、悪魔に憑かれた者として生きた教訓だったのです。
衆人の中で暮らすことは有意義な教化的機能を持ち奨励された存在でした。

それが狂気とは「何であるかが分かり」命名され分類され排除されました。
知と権力が結託したのです。

また国王二体論(王は生身の体と、国の体制を象徴する政治的身体を持つという考え)から、
王に反逆を企てた人間への罪が、「普通の体」を殺すだけなら不必要な残虐さを持つ、車裂きの刑、融けた鉛を傷口に流し込むなど凄惨になるのは、王に逆らった「政治的身体」を破壊する為に行われる、ことを発見しました。
不可視的な体制の象徴たる「王」に挑む「体」を、徹底して破壊することは現体制の安泰を約束します。

またフーコーは「性の歴史」において人が性を情熱的に語ることが、
やがて分類カタログ化され一種の制度「統御された欲望」のあり方として権力的に機能することを発見しました。

結局、フーコーの主張は、
あらゆる知の営みは、それが世界の成り立ちや、人間のあり方について情報をまとめてストックしようという欲望に駆動されている限り、必ず「権力的に機能」する。

ここでいう権力的とは政治的権力ということだけでなく、
人間が逃れられない「知」=正しきもの、という認識が生みだす、普遍の圧力の源泉になるということ、です。

さらにそれは「制度への疑いの眼差しをなげる」ことすら、一種の制度となり権力となりうる。
それを忘れて「権力への反逆」をにぎやかに歌う知識人をフーコーは軽蔑しました。

しかしこれは自己言及のパラドックスになります。
フーコー自身ですら自分の言質が権力になるわけです。

次回はバルト、究極のエクリチュールとは何か?
の予定だす。

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January 11, 2005

ガメラ 大怪獣空中決戦

子供の頃に、ゴジラだのウルトラQに夢中になっていると、40過ぎても未見の怪獣映画は一応録画してしまう。
大人ってさ、どうでもイイメールの整理とか、資料整理の時間ってあるでしょ。
そういう時に映画中毒者は、何か脇でやっていて欲しい訳です。
こういう言い訳をしつつ怪獣同士のファイト場面になると、資料整理中断して見入るんだけどね。(バカなんです)

というわけでみました、「ガメラ 大怪獣空中決戦!」(←!は付けなくともいいんだけどさ。ガメラにサービス)

だってライバル、ゴジラは今やハリウッドのウォーク・オブ・フェイムにまで足型を残す世界のスター。
地味だぜガメラ、やっぱ亀ってのがまずかった?
亀は万年、おめでたい動物です、っていっても世界には通用しないのか?
ゴジラは、いかにも恐竜→怪獣という路線でカタチから王道を行ってるからな。

キャラからしてもいい人過ぎるのな。
ゴジラって危険な雰囲気があるでしょ。キャラクターに複雑性が加味されてそこが魅力。
対してガメラは、今回も健気に人類の為に頑張ります。

対するギャオス
イイキャラしてます。
名前が生きてるよね。それだけ印象に残ったから、ヤクルトの投手にまであだ名が付いた。

目つきからアタマの形から、相手を切り裂く光線まで残忍さが出ていて悪役としてキャラが立っている。
今回は折れた東京タワーに巣を造ったりする。
その光景が夕陽に映えて美しかったりして、もうクロード・ロランあたりに描いてもらいたい絵柄になっている。
流石だぜギャオス。

今度はゴジラと戦え。
異種格闘技戦だ。つーか団体を超えた戦いを望む。
ミルコ・クロコップもK-1からプライドいったしさ。
そんな感じで頼むよ。

ラストは「荒野の用心棒」バリのタイマン勝負。
ジョー(クリント・イーストウッド)とラモン(ボロンテ)みたいな火炎と超音波攻撃の一騎打ち。

勝って静かにさって行くガメラ。
バックにエンニオ・モリコーネの音楽を被せてやりたかったです。
終わり。

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January 10, 2005

阿弥陀堂だより

奥信濃の自然と,加古隆の音楽が融合し感動的な映像美を生み出した傑作。

四季は癒しと再生、死と誕生のメタファーとなり、
淡々と語られる静かな優しさに満ちた寺尾聡と樋口可南子の夫婦愛に涙する。

北林谷栄についてはもう語りたくなかったのだが、
阿弥陀堂からすすきの穂をさして月を見あげるシーンなど、一瞬のカットでの存在感は、1カットで巨万のギャラを得ていた、それでも多くの監督達が競って使いたがった往年のマーロン・ブランド以上だよ。(笑)

渓流にきらめく輝き、水田に降り注ぐ雨の美しさ、日本独特の湿気に濡れる緑の木々、
山々を吹き抜ける風と虫の声、小川のせせらぎの響き。
降り積もる雪の中で、迎え火の煙る夏の墓所での家の明かりと線香の炎の光り。
控えめで優しい人々。日本の美しさの全てを封じ込めた小泉監督の手腕には驚嘆せざる得ない。

床の間に飾られるたった一輪の花のカットは、
バルトの夢想した究極のエクリチュールかもしれない。(次の回の寝ながら構造主義2で書きます)

しかし良く撮ったなぁ。
ヴェネチアで緑の獅子賞だったようだが、世界中の人に見てもらいたい。

ラスト、何が起こるか見切ってしまう映画にスレた自分が、ただの音楽と自然美に何度も泣かされた。
これがいわゆる魔法の宿った映画というモノなのだ。

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January 09, 2005

美術館の帝王:5

1600年―
バロック:歪んだ真珠という意味。
教皇は未だ力を残し、絢爛豪華な宮廷文化は花開き、
同時に市民社会が美術を楽しめるほど豊かになります。
多様性と豪壮な迫力が特徴です。動きを絵画に取り入れようとしました。
時間の概念の定着を試みたのです。

今までの絵画にないダイナミズム。これを感じたら、

「バロックですね」
なんて思い切っていってみましょう。
ただし低い声で言うこと、チャンスだ!と慌てて、甲高い裏声で言うと効果半減!
外れると恥じをかきますが、当たれば嫌みな奴だと嫌われます。
どっちにしろダメです。でも心の中だけでひっそりと思うだけでいいのでしょうか?
画家達はみんな恥を怖れず新たな表現に挑戦してきたのです。私達も頑張りましょう。

「歪んだ真珠:バロック」というのはやり過ぎだよ、という意味がこもってます。
いかにも泰西名画って感じの絵です。

カラバッジオ:バクチと喧嘩が好きで、人を殺してます。「ロレートの聖母」「果物籠」
血しぶきをリアルに描き、静物画にすら剣呑な雰囲気が漂います。

ベラスケス:「ラス・メニーナス」「教皇イノケンティウス10世
スペインの大巨匠。自然主義の発祥の人。どのくらい巨匠かというと、
ダリが最も評価した画家、上記2作品も「ラス」をピカソが「教皇」をベーコンがリライトしています。

レンブラント:「夜警」「ニコラース・ルッツの肖像」闇の中から傑作を生んだ人。

ルーベンス:「キリスト昇華架、降架」ネロとパトラッシュが最後にみた画家。
ルーベンスを見たら「パトラッシュー」と叫んでみましょう! ワンワン、と返事をしてくれる人がいるかも!

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「大工聖ヨセフ」光と闇の描写が素晴らしい画家。
フェルメール:「青いターバンの女」「牛乳を注ぐ女」少数の作品を残した画家、最近人気。

レンブラント、ルーベンス、フェルメールはネーデルランド(オランダ・ベルギー辺り)の画家。
今はもうネーランドだから注意してネーデル。

名前の不思議
バロックの歪んだ真珠といのは、大袈裟に過ぎるという皮肉を込めた揶揄でした。
ゴシックも本来は未開の民族ゴート族への野蛮さへの軽蔑がありました。
印象派も新聞の悪評で付けられた名前です。
結局、旧来の価値観で図れない美を生み出した新時代の芸術は、古い世代から的確な名前を貰うようです。

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January 08, 2005

トーク・トゥ・ハー

スペインの巨匠、ペドロ・アルモドバル監督では2作品目。
今回は以前の「オール・アバウト・マイマザー」よりアルモドバル・ワールドに入っていけました。

難解なテーマに自からの信じる表現で真正面からぶつかる監督で、いつも見慣れているハリウッド流サービス精神は皆無。一般の映画ファンには、少し慣れを要求する監督であることは確かでしょう。

今回のテーマは、昏睡を続ける憧れの女性との愛・・・・難しい。
画面に集中することは出来ても、今こうして書こうとする私の分析をはねつけてます。

画面に出てくるすべての発色が美しいです。それは洋服から窓枠にいたるまで徹底しており、
太陽の国、スペインでは世界はこう見える、と主張しているようです。

スペインは近年、すっかりリーガ・エスパニョーラ(スペインのサッカーリーグ)で馴染みになりました。
スペイン?
リーガ・エスパニョーラ!
フラメーンコ!
パエリーア!
ガウディ!

などとと一端知った気になると、何でも知ってるような気になってしまいますが、
実は今回、スペイン文化の重要な要素をまったく理解していないのに気づきました。

それは闘牛!
私には、あの興奮がわかりません。
闘牛のどこが魅力なのか?

でもスペイン人ならミロやピカソのような抽象的な画家ですら、
絵の中に闘牛や牛を書き込もむこと多々あるのです。

今回の映画も、女闘牛士が主人公の一人。
昨日のソシュールではありませんが、日本人の価値体系から闘牛はすっぽり抜け落ちています。
そうなると日本人の私は、闘牛士という背景の興奮と栄光、
ステイタスなど多重な意味を見逃している可能性がありますね。
やはり異文化への理解は、落とし穴に注意です。


それから今回は見事に陰毛が映ってました。
映倫の偏執的なボカシの執念にうんざりしていたので、
一瞬喜んだのですが、これは模型の体の陰毛でした。

陰毛といえば、強制収容所の老婆の陰毛にまでボカシを入れる映倫の執念は、
スペイン人に限らず世界中に理解されるのは難しいでしょう。

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January 07, 2005

寝ながら学べる構造主義 内田樹著

やっぱ、いろんなところに出てくる構造主義。
今回はこの入門書を、さらに簡単にまとめてみましょう。
これでうら憶えの知識を披露しまくると、まず女性に嫌われます。
貴方が女性なら男性に引かれます。
人望がありすぎたり、モテ過ぎて困っているみなさんの為に、
ちょーかんたんにまとめてみました。(だけど内容はイイ加減だよ)


構造主義とは
人間は自由に考えているようで、
実際は歴史的、地理的な制約のある社会集団の見方、感じ方に囚われている。
だから「私の見方は絶対に正しいと主張しても、論理的な基礎付けは得られない」
要は立場が変れば見方が違う、ということ。
以上だけを憶えて下さい。

ソシュール:言語学者
1911年「一般言語学講義」がスイスのジューネーブ大学で始まりました。
構造主義の誕生です。

主張したことは、
言葉は「ものの名前ではない」ということ。
それは「名称目録的言語観」といわれ、
例えば日本語で犬は,英語でdog,フランス語ではchien
だが、どれが正解ということはなく、名づけられる前からすでにモノ(犬はいて)はあり、
名前は人間が勝手につけた、としました。

さらに、人間は一つの言語の中で暮らすだけで、
「ある価値体系の中に取り込まれている」
ということを発見したのです。

「自分の心の中の思い」この絶対的と思えることも、
心のなかでは言語に変換されているわけです。
「心」、「内面」、「意識」も言語を運用した結果、
事後的に得られた言語機能の効果とも言えます。
哲学の中心課題であった「自我」、そのあやふやさを指摘したのです。

次回は、ミシェル・フーコーをやりましょう。
ソシュールは言語学者でしたが、この人は社会学者。
系譜学的思考を特徴としました。「監獄の歴史」「狂気の歴史」の著作があり、
歴史を生成の現場にまで遡行し、いくつもの常識をくつがえしました。

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January 06, 2005

ノストラダムスも言わなかった危機

ノストラダムスも五島勉も思いつかなかった、日本人の危機が少子化。

去年生まれた子供は110万人で、順調だった時と比べると、1年で50万人も生まれる子供が少ないらしい。
10年なら500万人、これはどんな大災害でも考えられない話だ。

結婚する人間からして少ないらしい。
昨日の日経に、ノルウェー人の女性が言っていた。
「日本の女性は、なんでみんな経済的条件の話をするの?
結婚って一緒にいたい人と子供を作って仲良くにぎやかに暮らす為のものじゃないの」

正論である。確かに向こうの女性達はお金の問題を考える前に、ノリで結婚して、苦労するはめになっても何とかするか、別れても逞しく何とかしてしまう印象がある。何とかならなくても、気にしない感じすらする。
(あくまで一般論です。個別に色々な人々がいるのは当然です。以下書くこと全て一般論ですから)

「だめんず・うぉーかー」という本に、
最初から経済的な計算をして結婚する女性と、本能のまま突っ走る女性がいる。という区分けがある。
それなら日本女性は最初から計算タイプが多いということなのだろうか?
でもそれは責められることなのかな?
自分の将来は、きちんと見極めましょう、と学校では教わるではないか。
恋愛は別だといっても、別だと思えるほどの人は結婚しているだろうが、
そうそう計算を度外視できるほどの恋愛ばかりはないだろう。


「やっぱお金貯めないと、いざというとき嫁さん、泣かしますから」
同じ記事にあった、32才飲食店勤務のフリーター男性の言葉である。
もし私がこの人の立場だったら結婚するだろうか?
私なら、万一出会いがあっても迷うだろう。
先々を考えればかなり大変そうである。

それはオマエがダラシナイと言われれば、謝るしかないが、キレイ事抜きに考えれば、難しいのは確かだろう。
日本人の男性は心配性で謙虚なのである。
逞しさがない、というが、人間は自分の努力が認められて自信を得る生き物である。
失業率が高く、終身雇用制が崩壊した後、全ての男性に自信を持て、というのは難しい。

国民がひとしく貧しい時代を送ってきたなら、結婚はするだろう。
地域社会での助け合いは機能しているだろうし、貧しければ、昔のように親元で食べていけない事情もあるかも。

しかし日本はまだまだ豊か。
女性は親元から職場に通えれば、何とか普通に暮らしていける。
それなら無理に結婚しない、というのはごく自然な感覚かもしれない。

男性は苦しい時代に自信を持てず、反面、コンビニなどの便利も広まり、
社会的制約もゆるくなり、これまた一人でも昔に比べれば暮らしやすい。

謙虚で心配性の日本の男女が、それぞれ親元に引き篭もり、互いに新しい家族が出来ないというのは、
いろんな要素と時代背景がからまった、ゴルディアスの結び目みたいに一筋縄ではいかない問題だよね、
と思います。

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January 05, 2005

朝霧  北村薫著

「秋の花」「夜の蝉」などに続く女子大生「私」と噺家の円紫師匠の連作短編ミステリー。(今回は就職して編集者になっていますが)

トリックの為のトリックとか、暴力、エロにうんざりしているミステリーファンには,
ぴったりの日本人的美意識に溢れた味わい深いミステリー。

魅力の第一は気品のある文章。
日本の古典文学から俳諧などへの嗜みが随所に光り、
日常の生活に寄り添う詩情と、移ろいゆく季節への細やかな描写が印象的です。
主人公「私」の優しい心根や、たおやかな知性、可愛いらしいユーモアは、
この時期、読者の心を暖めるかもしれません。

人間の闇を語るのにも、品性を失わない著者の力量は確かです。
さらに驚くべきは、本格トリック小説としても、しっかりとした構成を両立させていること。

朧夜の底、水に眠る、冬のオペラ、織部の壺、こんな題名の小説が読みたくなったら、
「空飛ぶ馬」から順番にどうぞ。


PS
正月番組などで救いようのない噺家を見ていると、
円紫さんの存在は織田裕二扮する湾岸署の刑事並にあり得ない存在に思えるが、
まぁどちらも面白いので良しとしましょう。

PS
「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ1度であることへの抗議からだと思います」
BY北村薫
うん、良い言葉。

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January 04, 2005

美術館の帝王:4

1500年―
盛期ルネッサンス:
フィレンツェからイタリア中に広まる文芸復興。
レオナルド:「モナリザ」、「洗礼者ヨハネ」 万能の天才、スフマート画法。
ミケランジェロ:「ピエタ像」、「ダビデ像」 神のごときミケランジェロ。
ラファエロ:「小椅子の聖母」、聖母の画家といわれました。歳暮と間違えないこと。
この時代、人類の美術は一つの頂点を迎えます。

遠近法の確立!
これがポイントです。アルベルディは「絵画論」の中でこう述べます
「画家は幾何学を学ぶべきである」
絵画そのものに重大な影響を与えたのは勿論、
人類の思考の基本が宗教から科学に移っていく象徴的な発言です。

ルネッサンス、ヴェネチア派
ジョルジョーネ:「嵐」「眠れるヴィーナス」 伝説の画家。カッコイイ奴だったらしい。
ティツイアーノ:「聖愛と俗愛」「カール5世騎馬像」 当時の権力者と深く結びつく。
画家が単なる技術者という地位から、しだいにステイタスを得はじめます。

北方ルネッサンス:
今のオランダ、ベルギー辺りの絵。
ヒエロニムス・ボス:「快楽の園」、気持ちのワルーイ絵ね。
想像力が悪夢のようなフォルムを表現し始めた端緒。
デユーラー:「4人の使徒」、銅版画でも有名。細かい線描がメッチャ巧い人。北方的な緻密さがあります。


マニエリズム:
イタリア語のマニエラ(様式)から来た名前。
ルネッサンスで自然に回帰したけど、行き詰まって少し不健康になった感じの絵。
デカデン的退行があります。
エル・グレコ:「受胎告知」、スペインで画業をなしましたが、グレコ=ギリシャ人という意味。
ギリシャ人がイタリアで学び、スペインで成功した訳です。

画家の個人的な業績は後でやります。
ます最小限の人と時代を一致させて、歴史的な流れを掴みたいです。
最初から情報量が多い憶えられないからね。俺の脳細胞が基準になってます。

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January 03, 2005

ワイルドスピードX2

改造車が突っ走り、セクシーな美女が一杯でます。

クルマに興味のない人に、少し日本車の文化について紹介します。
この米国映画で走り回る改造車は、ほとんどが日本車です。
スカイラインGT-R、スープラ、ランサー・エヴォ、S2000も出てきます。
日本車をベースにした改造車は、
この舞台になっているLAだけでなく世界中のスピード好きの若者達にカリスマ的人気を誇るのです。
普通の若者に、フェラーリやポルシェは買えませんが、
遙かに安価で改造すればとてつもない高性能を発揮する日本車なら買えるからです。

高性能=高価=お金持ちだけのモノという、クルマ社会のヒエラルキーを日本のオタク車は破壊したのです。
貧しき若者達に高性能を解放したのね。

だからアメリカ映画なのにアメリカの魂(muscleを魂と訳してますよね?)、
カマロやムスタングの大排気量ヘミヘッドV8は引き立て役に回ります。

俺はクルマ好きの日本人として嬉しいです。

で、本筋の話しの作りは基本的にどうでもイイんです。
ともかく疾走する日本車と、きわどいファッションの女性を見て下さい、という1品です。

PS
主役はイヴォ(ランサー・エヴォリューション:世界ラリー選手権優勝車)
アメリカ映画で誇らしげに映し出されるスリーダイヤが,今の日本では悲しくみえるぜ。

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January 01, 2005

年末格闘技の感想です。

シウバVSハント
結局、殴り合いでは、体の太い奴に勝てないのか?

ハントは確かに強い。30キロ軽い人間の打撃ではあの頑丈な首の上の頭は揺れないのだろうし、
膝蹴りは首を引き倒せるのが前提だから、シウバはサークリングから、タックルに行く。

それ以外の選択肢が無かったのだろう。
タックルしてマウントして殴れる時のみ勝機がある。
シウバは悲壮な計算をかいま見せず、普段と同じように絶え間なく動きながら試合の開始を待つ。
真のファイターだと思う。

しかし試合中、弱気なシウバの顔を見た時、人が逃れられない弱さも見た思いだ。
限界も見せられたけど、良く闘ったよ。

PS
リング中央に戻る時、4つんばいのまま子供の電車ゴッコように戻るのはなごむ。


キッドVSマサト
マサトもシャープな動きをみせたけど、オイルの上を滑るように動くキッドは美しかった。
踏み込みが速く滑らかなのは猫科の動物のようで、ファンタジックな魅力がある。
ダウンを奪った1発も綺麗なパンチだった。

急所に入った蹴りは、マサトにすれば精神的に追い込まれて不可避だったのかも。
試合前のインタビューでも立ち上がって激高するマサトに、
落ち着いて対応するキッドにキャラクターの違いを感じた。
キッドは良く闘った。闘志を失わない澄んだ目に魅力を感じた。

試合は、あれから動きに滑らかさを失ったキッドが、マサトの体力に圧倒された。
抱き合う二人を見ていると。体格が3階級は違うな。

キッドは、プライドに移ってイイキャラクターになった五味との試合がみたい。
マサトはプアカーオー戦ですね。

ヒョードルvsノゲイラ
ヒョードル、戦略の勝利。
相手にチャンスを与える関節技のリスクは犯さず、自分が優位の打撃で勝負する。
でもあのノゲイラをなんで普通の人のようにコロコロ投げられるのか?
手首を掴まれる瞬間はスリリングだが、なんでヒョイヒョイ抜けられるのか?
あの必殺タックルをなんで完封出来るのだろう? 

ヒョードルのパンチは、肩の加速度が凄い。
そこからのパンチが、普通の選手より2段階位伸びてきて、それが極寒で磨かれた氷の刃のように鋭い。
打撃の選手には組んで倒すし、寝てくる相手には打撃で倒す。

これで対戦相手がいなくなった。

伝説のヒクソンとの勝負が見たい。
二人の異様な程の冷静さは五分だと思う。それだけで見たい。
ヒクソンも、そろそろ最後のビジネスチャンスだと思う。
後は伝説か、現実のどちらが勝つのか?
もうそれ以外のカードが思い浮かばない。


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